おしごと
んー、ひだりから2番目の娘かなぁ
やさしく、つよく、おもしろく
だけど、そういうのがベースにあって、そのうえで仕事するのさ。
2020年11月のおしごとEUREKA!
【論文】集団での意思決定の質を高める7つの戦略
~行動科学が教えるバイアスからの脱却法~ トービン・エマーリング&ダンカン・ルーダース
いや、ほんと、その通りですなぁ。
③戦略的に反論者を指名する ... 反論者を役割として演じて発言してもらうと決定の質があがる。ですよねー。
④意見は個別に集める ... これ大事ですよね。まずはこれから始めないと。
⑤安全に意見を言える場をつくる ... 安全じゃないから外向きにならず内向きになっちゃう。安全第一ですよね。
⑦役割を分担し、責任を共有する ... "自分達で決めたこと"っていう認識が みんなを強くするよね。
【論文】忙しさを競い合う悪しき文化をどうすれば変えられるか セレニティ・ギボンズ
なにやら忙しそうにしている人は、「あなたの仕事は何をめざす仕事なのか、そのために何を大切にすべきか?」
という問いに答えるのを棚上げしちゃってることが多いと思うんですよね。
一方で 私は "その気になればできるかもしれないこと" を棚上げすることで、忙しくない状況を維持しているだけ
でもあるんだけどさ。
2020年9月1~2日のおしごとEUREKA!
半年間 このページに何もアウトプットしていないのは、いかがなものか。
書くことがないわけでもなく、いっぱいあるので、順不同で思いつくことを2日がかりではきだします。
『クリエイティブな仕事がしたい』
のクリエイティブとは何なのか? OneCareerSuperLive
この動画は 楽しく観ました。
もともとグッドパッチという会社をFaceBookでフォローしていて、土屋さんが出るというので観たのですが、arcaの辻さんとか、
新R25の渡辺さんが発する言葉が面白かったです。
動画のタイトルにあった "『クリエイティブな仕事がしたい』の"
の部分が抜け落ちてしまって、純粋なクリエイティブ論議になってしまっているところは、ちょっと残念な点です。
「0⇒1 ではない」という気がします。
新R25の渡辺さんが発した言葉。
「誰かに届くべき考えとか情報はすでにどこかにあって、
クリエイティブとはそれを届けるための工夫のことなんだ」
そうですね、私もそう思います。
渡辺さんは「現代は情報過多だ」とも言いました。
でも「情報に流される現代人」みたいなことがよく言われるんですけど、
人間の意識にはまだまだ余裕があって 渇望しているのではないか、
と私は思います。
ものごとの裏側にあるストーリー、誰かの人生や努力について、
想いをはせる余裕が現代人にはあります。
(それは現代人がやっと手に入れた余裕なのではないか、と思います。)
もはや余裕というよりは、それが「生きる重要な意味」であるかのよう。
渡辺さんが新R25でやろうとしていることも、それだと思います。
(新R25の記事はがっつき過ぎで私は読まないですけどね)
佐藤ねじさんのすごく面白い会社 Blue Puddle のVISION “「0→0.1」を発見する” →ホームページを見てみよう
佐藤ねじさんの「おとなこども学校」動画
~アイデアというのは組み合わせである~
順番は、アウトプット⇒インプット⇒アウトプット
グッドパッチの土屋さんが発した言葉。
私の解釈ですが、最初にまずは全力の答えを何らか出すんですね。
だけど、自分の中でひっかかっている部分があって考え続けたり、
アウトプットしちゃったあとに新しい知識や経験に出会っちゃったり、
そんなインプットがあって、最初とは違うアウトプットが出せるようになる
みたいなことです。
定期的にアウトプットをすることが大切、というのは、
佐渡島 庸平さんが言っていた言葉。
確かにそうかもなぁ、と思います。
EUREKA!を月刊で書く理由
風間くんに「息子さんへの溺愛っぷりがEUREKA!に出ている」と言われ、必死で説明したのだけれど、私は絵に描いたような優しい良いおとうさん
ではありません。ゆうりくんからすれば、非常に口うるさいおとうさんで、気分に相当ムラがあるし、時々意地悪さえもします。
EUREKA! には どうしても大嘘は書けないので、事実に反しない程度の
最大限のポジティブを書いているのですが、そうすることで
自分自身の矯正をはかっています。
月1回は矯正をやらないと、悪いおとうさんになりがちです。
「クリエイティブ」の最近の意味が邪魔している
RoomX Session5 では、ひとつの言葉「クリエイティブ」が持つ複数の意味や使われ方が混ざってしまい、ちょっと混乱してるように思います。
最近は 画面の構成・つくりや WEBのバナーなどを「クリエイティブ」と
呼んでしまっています。しかも発音のしかたも元の英単語とは変えてます。
つまり、何か表現したいこと、伝えたいこと、誘因したいことが概念であるのに対し、"実際に目に見える具体的な形にしたもの"を指しています。
この「クリエイティブ」の使われ方が セッションのところどころで要らぬ邪魔をしてくれています。
クリエイティブというのはもともと、むりやり日本語にすれば、「創造的」
「独創的」と翻訳されてきた言葉です。
参考にできる前例が少ないので、自分で「こんな感じかなー」と考えて
つくらざるを得ない状況のことを指す言葉なのだと思います。
もしくは、そんな状況に耐えられ ついつい燃えちゃう性分のこと、です。
「クリエイティブな仕事」というのは、すごく簡単に言ってしまえば、
「流れ作業ではない」ということなのでしょう。
自分で考えて好きなようにやってもいい、という自由を与えられて、
しかもそれが何だかうまくいくと、「クリエイティブだな」と感じることができるのではないか、と思います。
仕事において「滅私奉公」「公私混同をしない」が良しとされてきたけど、
自分の「好き」を仕事を通して現実化してもよいじゃないの?と世の中が
気づきはじめているのだと思います。
自分を精一杯出して、その評価を受け止めているうちに、自分の「好き」が磨かれて変化していくので(アウトプット⇒インプット⇒アウトプット)、「好き」を現実化することを繰り返しているだけでも、社会の役にたてるのではないでしょうか。
公私混同に関する論文(ハーバードビジネスレビュー)
働く親は自分のアイデンティティのすべてを仕事に持ち込もう
「他人事ではなく自分事だと思って取り組んでほしい」と言われることがありますが、多くの場合、「あなたにもノルマがあります」
という意味合いだけで使われてしまっています。
「自分事として取り組む」というのは、自分が「こうだったらいいな」と願うことを仕事を通して具現化することです。
自分事として取り組むと、その人のオリジナルが入り込むものなので、オリジナルは認めずにノルマ負担を求めるのであれば、
「ノルマだからやってね」と率直に言ったほうが良いと思います。
こうだったらいいな、は自分で考え抜いて、試行錯誤して、大切な人からアドバイスをもらわないと、見えてきません。
優れた製品やサービスは、そういうプロセスでつくられます。
アドバイスをくれる大切な人 が身近にいることが大切で、そんな人は公私を完全に分離した職場では見つからないのだと思います。
弱いところだって見せ合える、そういう安心感のある環境をつくってはじめて見つかるのだ、と説いている論文だと思います。
ハーバードビジネスレビューの論文をもうひとつ
家族会議で「アジャイル」を実践する3つのポイント
職場にしても、家庭にしても、それ以外の場所であっても、長時間を共にする大切な人とは、感じていることをオープンに話せる場をつくって、お互いにアドバイスしたり応援しあったりすることが大切だ、ということですね。
そういう場を定期的に持つ、ということが、気恥ずかしさのハードルを乗り越えるのに役立つのだと思います。
何かひとつの方向性に向かってそれぞれが行動し努力すれば、永遠にうまくいくわけではなく、スタンプラリーを楽しむように
「次はどっちにいくか」と わいわいやりながら、お互いの凸凹やその変化を感じ取り、寄り添っていくと幸せにつながります。
凸凹はその人の固有のものであるけれど、同じ凸凹を持つ人は世の中に結構いて、寄り添った経験は他の人との関係にも活かせる
ってことなのでしょうね。だからビジネスにも効くのだろうと思います。
アジャイルとは?アジャイルを教わりに行ったら組織哲学を学んだ話。
https://flxy.jp/article/5984
↑ 非常にわかりやすい解説を LINEの横道さんがしてくださっています。
【アジャイルソフトウェア開発宣言】
私たちは、ソフトウェア開発の実践
あるいは実践を手助けをする活動を通じて、
よりよい開発方法を見つけだそうとしている。
この活動を通して、私たちは以下の価値に至った。
プロセスやツールよりも個人と対話を、
包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを、
契約交渉よりも顧客との協調を、
計画に従うことよりも変化への対応を、
価値とする。
すなわち、左記のことがらに価値があることを認めながらも、
私たちは右記のことがらにより価値をおく。
『アジャイルソフトウェアの12の原則』
・顧客満足を最優先し価値のあるソフトウェアを早く継続的に提供します。
・要求の変更はたとえ開発の後期であっても歓迎します。
・変化を味方につけることによって、お客様の競争力を引き上げます。
・動くソフトウェアを、2-3週間から2-3ヶ月というできるだけ短い時間間隔でリリースします。
・ビジネス側の人と開発者は、プロジェクトを通して日々一緒に働かなければなりません。
・意欲に満ちた人々を集めてプロジェクトを構成します。
環境と支援を与え仕事が無事終わるまで彼らを信頼します。
・情報を伝えるもっとも効率的で効果的な方法はフェイス・トゥ・フェイスで話をすることです。
・動くソフトウェアこそが進捗の最も重要な尺度です。
・アジャイル・プロセスは持続可能な開発を促進します。
・一定のペースを継続的に維持できるようにしなければなりません。
・技術的卓越性と優れた設計に対する不断の注意が機敏さを高めます。
・シンプルさ(ムダなく作れる量を最大限にすること)が本質です。
・最良のアーキテクチャ・要求・設計は、自己組織的なチームから生み出されます。
・チームがもっと効率を高めることができるかを定期的に振り返り、それに基づいて自分たちのやり方を最適に調整します。
私の場合も 「RPAをうまく使っていただいて浸透させるのには どうしたらよいだろうか」 といろいろと考えていたら、
アジャイルソフトウェアの開発宣言や12の法則に近いものに行きついていました。
おそらく、この開発宣言も12の法則も システム開発者が考えて書いたもので、開発者がハッピーに仕事をするのにはどうしたらよいか
と考え続けた結果に過ぎないのだろうと思います。開発者はユーザと独立して、あるいは敵対していては、どだいハッピーになれず、
寄り添って同じ方向をみることでしか、しあわせになる術はない、ということです。
それは、システム開発に限らず、ビジネスの場において、家庭において、先生と生徒の関係において、あらゆる場所において、
共通するハッピーな人間関係のありかたであった、ということなのだと思います。
アジャイルを生んだのは、能力・忍耐の限界ではないか
なぜ今になって アジャイルがもてはやされているのか というと「人間の能力や忍耐には限界があるんだな」と感じとったから
なのだろうと思います。能力というのは、予測や計画にかかわる能力のことです。忍耐は居心地の悪さに耐える耐性のことです。
長期的な予測ができる能力は 人間の強みであることには間違いないけど、限界があります。
「10年後の自分がどうなっていたいか」と考えることは重要だ、と言われることがありますね。
否定はしません。忙しい毎日に追われてばかりいないで、自分は限りある人生で何がしたいのかしら? と考えることは大切です。
だけど、「10年後の自分」なんて言い当てられるものではなく、考えなくても 今を大切にしあわせに生きることはできます。
自分自身のことではなく、会社の事業計画とかシステム開発計画の話になると、無理・無茶の度合いが飛躍的に高まるんですよね。
自分ひとりがどこまでがんばれるか、とかいうレベルでは語れないので、約束のしようがなく、予測の計算式はかなりザックリに
なります。往々にして、"捕らぬ狸の皮算用"的な計画を正当化する都合のよい計算になりがちです。
2018年5月のおしごとEUREKA! でとりあげた、ほぼ日 糸井氏と孫 泰蔵さんの対談を再掲します。
孫 )たとえば事業計画とか、マイルストーン(中間目標)を立てるとかって、科学的なアプローチだと思うんですけど、
いま僕は「事業計画は本当によくない」と思っているんです。
だからいま、少なくとも僕が関わっている事業やスタートアップに関しては「事業計画を作ったらぶっ殺す」と言っています。
計画とか予算とかを立てると、人間ってどうしても それを守ろうとするじゃないですか。
だけど実際の仕事って、いろんなところで偶発的なセレンディピティ(予期せぬ幸運)みたいなものがあって、シグナルが
「チカチカ」ってするんですよね。
そのときにそれを取れば、物事がダイナミックに回っていったり、思わぬ展開があったりする。
実際そういうことってすごくあるんですよ。
だけど予算や計画があると、そのシグナルを無視したくなるんです。
シグナルを感じるセンサー自体を自分から切っちゃうことすらある。
で、せっかくシグナルが来てるのに、それを取らないことのマイナスって、すごく大きいなと思うんです。
時代的にもいま複雑系の世の中になって、ますますその複雑さが増えている中では、最初に決めた計画を遵守するより、
シグナルを捕まえながらやっていくことのほうが合理的だと思うんです。
糸井)そのシグナルというのは、たくさんのデータを見ることじゃなくて。
孫 )まったく違いますね。
糸井)究極を言えば、自分のなかにシグナルが出てくるという。
孫 )あ、そうですね。
糸井)さきほど僕が「肩書きや役割をすべて取り払ったのがその人だ」という話をしましたけど、そんなふうにのびのびした状態に
なると「人はこういうの嫌いだよな」と「自分はそれは嫌だな」が重なることが、とても多くなるんです。
システム開発者は、居心地の悪さ を「無理な計画順守」以外にもうひとつ別の事象でも感じていたのではないか、と思います。
それは「共感の欠如」というようなものです。システム開発者を志したのは、自分がつくる仕組みによって 誰かが満面の笑顔になる、そういう瞬間が何度も自分に訪れるんじゃないか、と夢見たからです。
だけど、ユーザの笑顔を見る機会はなく、全体計画を淡々とこなしていると、孫さんが言うシグナルセンサーはオフになります。
シグナルを感じ取って計画を変更したほうがいい と考えても、計画変更はまわりに迷惑をかけてしまう「悪」なので言い出せません。
そんな状況にあっては、シグナルセンサーをオフにしないと身が持ちませんが、それは主体性・人間性をオフにするような苦行です。
ユーザにも笑顔が必要ですが、開発者にだって笑顔は必要なのです。
部分最適だって、最適は最適
私が取り組むRPAでは「RPAは部分最適になりがち、だから失敗する」という指摘をよく受けます。
部分最適と対になる言葉は「全体最適」で、ひとつの指針に全体がビシっと沿っているような理想的な状態のことだと思います。
部分最適は、「視野が狭くアホなので 全体の規律を乱してしまう悪いヤツ」というレッテルを貼られがちです。
だけど、「全体がひとつの指針にビシっと沿う」という状態が 現実にあり得るか? と私は問いたい。そんな指針あんのか?
少なくとも、全体最適を狙う前に、部分最適をいくつかこなす必要があるだろう、と思っています。
こっちを立てれば、あっちが立たない、というところまで部分最適で進めてみないことには、全体最適のポイントはわかりません。
そして、全体がうまくおさまる最小公倍数的なものにおいては、部分部分がすこしずつ我慢をせざるを得ないことに注意が必要です。
その部分にとって、その我慢をすることは、致命的になることだってあり得ます。
してはいけない我慢をしてまで 全体におもねるのは間違いで、部分はしっかりと主張をしなければいけない時があるのだ、
と考えています。
東洋経済ONLINEの記事 「日本製品」が海外で売れなくなった根本原因 高千穂大学商学部准教授 永井 竜之介
https://toyokeizai.net/articles/-/361229
日本では あらゆるビジネスにおいて「最初から完璧」が目指される。ただし、ここで目指されるのは「減点型の完璧さ」である。
おもしろいが危うく伸びそうな「価値の枝葉」を早期に取り除き、じっくり時間をかけて きれいで小さなプロダクトへ磨き上げるのが日本の得意とする「減点型の完璧主義」だ。「余計な機能が多くて割高」「過剰品質」と揶揄され、苦境に立たされているのが現状だ。
いま世界で勝ち上がっているのは、「加点型の完璧主義」だ。
おもしろいアイデアが出てきたら、できる限り早く最低限の価値を持った商品
に仕上げてリリースし、市場の反応を見る。
販売と並行して市場の反応がよかった要素をさらに伸ばし、悪かった要素は優先的に改善してバージョンアップしていく。
といった話になったところで、2020年2月のおしごとEUREKA! に続きます。
2020年2月のおしごとEUREKA!
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン
赤ん坊が、日々成長して、
なにかがちょっとずつできるようになってくる。
なだらかな坂を上るようにも変わっていくし、
階段をひょいと上るようにも変わっていく。
「這えば立て、立てば歩めの親心」というけれど、
赤ん坊を見守る大人たちが無意識やっているいいことは、
こどもの成長を、加点法的に見ているということだ。
「できるようになったこと」をひとつずつ発見して、
それを足し算しては「じょうずだね」とよろこぶ。
まだハイハイのできない赤ん坊に対して、
「まだハイハイもできないのか」という具合に、
できることからの減点法で見ていたら、
毎日がずいぶんと息苦しいことになるだろう。
ちょっとでもできるようになったことは、
ひとつずつ立派な勲章のようにピカピカに輝いて、
そのこどもの誇りになって増えていく。
「まだ、あれができない、これができない」と、
大人と比較して急かせるわけでもなく、
周囲の早熟なこどもと比べて嘆くわけでもなく、
「できたら、できるごとに、よろこぶ」加点法なのだ。
これは、すばらしいやり方だなぁと、いまさら思う。
大人の成長がむつかしくなるのは、やっぱり、
理念としての完成形から、
減点されて始まるからではないだろうか。
山登りの喩えでも、てっぺんに立つのが完成である。
そこまで、あと何キロと数えて登っていく。
いつでもそのとき立っている場所が、
頂上から引き算されていることになるのだ。
いわゆる「目標」を立てて、そこに至るというやり方は、
すべて減点法であるとも言えるだろう。
こどもが育つときのように、
これを加点法に変えることはできないものだろうか。
「目的」に到達することを意識するのではなくて、
日々、一歩あるいは二歩三歩進む過程を、よろこぶ。
それを繰りかえしているうちに、ただの目的地と言わず、
あらゆる場面に行ける能力が身につくのではないか。
ちょっとした思いつきなのだけれど、考えてみたいなぁ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
2006年に「ほめるとなぜ伸びるのか?」を書いていました。
2020年1月のおしごとEUREKA!
『幻滅期』とはなにか。
"親友の" 藤田さんから、『このページは毎月読んでいる』と言われて、ちょっとプレッシャーです。
じゃあ、藤田さんと私の共通話題である「RPA」について、書きますね。
下図はもう何度見たことか、『RPAがとうとう幻滅期に入っちゃったぞ!』の図です。
「この図から入る悲観的なプレゼンテーションが多いのが すごくイヤ」なんですよね。
この図を人間の年齢に置き換えてみれば、理解しやすいです。
ティーンから20代の黎明期。「過度な期待」を受け、自分にもかける30代のピーク時期。
そのあと大厄を迎え、幻滅期の40代がやってきます。
苦しいところを抜ければ、啓蒙活動期の50代が待っています。
私はいま 48歳ですが、『若く たのしかった20代・30代に戻りたいか?』と訊かれたら、迷わず "NO" です。
40代とか「幻滅期」というのは、後退しているのではなく、間違いなく前進しています。
下図は2018年1月のおしごとEUREKAで載せた「フロー・ゾーンに入るための状態変化」の図。
ガートナーの言葉遣いが悲観的・攻撃的なだけで、同じことを言っています。
ただ「ゲームチェンジ」の最中だから、これまでの勝ちパターンが効かなくなっています。そこが苦しい。
だけど、「これまでの勝ちパターンを捨ててでも ゲームをチェンジする」と決めるのは自分自身。
あたらしい勝ちパターンの存在にうすうす気づいているのだから、たのしんでやっていきたいですね。
まだRPAに取り組んでいない人たちは、これからでも たのしい黎明期を迎えることができる。
そのことも忘れないでいきたいですね、藤田さん。
「少数派になることを恐れない」について
2019年12月号の「ホーム」ページで、ゆうりくんと私の似ているところは「少数派になることを恐れないこと」
と書きました。
私は 今のゆうりくんと同じような年齢から、同年代の子と興味や好きなものが少し違って、「話があわないな」
と感じていましたし、同年代よりも大人と一緒にいるほうがたのしかったです。
そうすると、どうしても、大人から離れて子供だけでいるときには、ひとりぼっちになることがありました。
ひとりぼっちとは言っても、まわりに子供はいます。
積極的にはかかわらずに、相槌だけは打って、オモテでは「僕もたのしんでいるよ」 と見せながら、
頭の中では別のことを考えたり、状況を客観的に眺めている、そういう子供で そのまま大きくなりました。
ゆうりくんにも同じものを感じます。
「ほかの人と違う」ことに恐怖心はないし、敢えて メジャーを避けて マイナーの道を探ることが多いです。
「私の言ってることわかる? わからないんだったらいいよ、気にしないで。」で良いと思ってました。
それは自分の独創性の証明であって、これこそが 自分の強さなのだと、
私の中では ますます力が湧いてくるような
気持ちでいました。 2019年の12月に至るまでずっとです。
「自分ひとりにできることには限界がある」ということには、もっと前から気づいているつもりだったのに、
「私と同じように 感じることはできる? 考えることはできる?」と試して、「できないならいい」にしていました。
相手がどこまでなら同じように感じ、同じように考えてくれるのか、それを手探りで見つけること、
共感を大事に大事に積み重ねながらのぼっていくプロセスを 相手と一緒にたのしむことが大切で、
最終的には心地よいことなのではないか。そんなことに気づくまで、50年近くかかってしまいました。
自分の性は、相手から逃げて自分の中へと向かってしまうから、「おそれて少数派に逃げこみたい自分」
を踏み止まらせるのは、その大切さに気づいた今でも難しく、くるしい。
優しい理で 自分を奮い立たせて、口角をあげていこう。
山内小学校で「発想」の授業
カヤック×サン・アド produced by 湘南ゼミナール
https://locotch.jp/tmpz/article/324/
先月のおしごとEUREKAのカヤックが、小学校で授業をしたそうです。
前半の体育館での授業は「"カヤック社員の" 発想の練習になっちゃってない? 」と思うし、
子供たちが考えた「運動会をもっと楽しくしよう」の結果を見る限り、2018年5月のおしごとEUREKAのとおりです。
新井紀子さんの、「リアリティがない」のまんまでした。
糸井)子どもはね、保守的なんですよ、だいたい。子どもが自由な発想をするっていうときの「子ども」は、
だいたい借りてきたものなんですよ。〝決着した人〟じゃないと遊びはできないんですよ。
新井)そうですね。子どもってリアリティがないから、問題解決ができないんだなって思いました。
体験とか、駆け引きとか、本物のリアリティが欠けてる。
逆に、お母さんは子どもに食べさせなきゃいけないとか、リアリティがある中で問題解決をしているんです。
お母さんのほうが独創的。独自で問題解決してるから。
そうなんですけど、企業で(フリーでもいいけど)仕事をしている人が、教壇にもっと立つべきだと思ってます。
「先生の仕事は忙しすぎる」という問題提起とか、「学校の勉強はもっと社会で通用するものを」という意見と
「勉強は就労の準備ではなく人の生き方なので、純然たる勉強を大切にすべき」という意見の間での議論は
繰り返されてきたので、じゃあ どうすればいいのか、に論点を転じて考えたほうがいいです。
そういう複数の問題に効くかもしれないのが、「社会人が教壇に立つこと」なのではないでしょうか。
長年、純然と勉学に勉めてきた人を呼んで、勉強がもっているたのしさに触れるのもいいです。
子供がたくさんの大人を見て、どの人に憧れるか、たくさんのサンプルから選べたらすばらしい。
糸井さんが言うように、子供は借り物ベースの発想だから、よりたくさんの大人から借りられたらいいです。
教壇に立つ社会人側は、「自分が普段仕事でやっていることが どれほど普遍的な意義をもっているのか?」
という問いに 果たして自分は答えられるのか、そういう試練を味わうと視界が開けるかもしれません。
2019年までのおしごとEUREKA! もあるよ