おしごと
んー、ひだりから2番目の娘かなぁ
やさしく、つよく、おもしろく
だけど、そういうのがベースにあって、そのうえで仕事するのさ。
2019年12月のおしごとEUREKA!
サボります。
ですが、せっかくの新年号ですので、こちらでもどうぞ。
面白法人カヤックさんのVISION https://www.kayac.com/vision/message
面白法人に込められた3段階の思い
1. まずは、自分たちが面白がろう。
2. つぎに、周囲からも面白い人と言われよう。
3. そして、誰かの人生を面白くしよう。
企業理念は、『つくる人を増やす』
私も心は 面白法人カヤックの社員として、2020年もがんばっていきます。
※ちなみに、「面白株主」として、名刺がもらえるように 株式保有中です。
2019年11月のおしごとEUREKA!
『岩田さん ー岩田聡はこんなことを話していたー』より
https://www.1101.com/books/iwatasan/free/free.html#_more
わたしは社長に就任したとき、1ヵ月ぐらいかけてひたすら社員と話をしたんです。そのときに、いっぱい発見がありました。
自分は相手の立場に立ってものを考えているつもりでいたのに、直接ひとりひとりと話してみると、こんなにいろいろな発見があるのか、と思いました。当時は、なにが自分たちの強みで、なにが弱みなのかをわかろうと思ってやったことだったんです。それがわからないと、自分は社長としてものを決められないですから。
わたしは、自分がどんな会社で働きたいかというと、「ボスがちゃんと自分のことをわかってくれる会社」や「ボスが自分のしあわせをちゃんと考えてくれる会社」であってほしいと思ったんですね。
そして、わたしは「人は全員違う。そしてどんどん変わる」と思っています。もちろん、変わらない人もたくさんいます。でも、人が変わっていくんだということを理解しないリーダーの下では、わたしは働きたくないと思ったんです。
自分が変わったら、それをちゃんとわかってくれるボスの下で働きたい。だから、自分も社員のことをいつもわかっていたい。それが面談をはじめた動機です。たいへんだけど、自分の得るものも多いなとわかりました。
社員全員と面談するなかで、話し合うテーマは全員違います。ただ、面談のプログラムのなかで、唯一決まっているのが「あなたはいまハッピーですか?」という最初の質問でした。
わたしの経験からいうと、面接官には2通りのタイプがあるんです。相手をほぐしてからその人の本性を引き出して、そのうえで選びたいと思っている人と、「ほぐれていないから話せない」というのもその人の社交性だったり、力だったりするから、そのまま評価してしまうという人と。
わたしは、前者です。後者の面接官って可能性を一部しか見てないと思うんですよ。まずはほんとうの自分を表現してもらわないとなにもはじめられませんからね。
わたしは、社内での面談というのは人一倍やるほうなんですけど、面談のいちばん重要なことって、相手が答えやすい話からはじめることだと思っているんです。
社内ではじめての人と話すとき、わたしは「どうして任天堂に入ろうと思ったの?」という質問からはじめるんです。それはかならず答えられることですから。どんな理由だろうと、かならずなにかあるはずだし、自分のことだから自分で答えられるはずなんです。ありのままの事実を語ることができて、しかもその人のほんとうの姿を垣間見ることができる。
「どうしてこの会社に入ったの?」という質問のほかに訊くことがもうひとつあります。
それは、「いままでやってきた仕事のなかでいちばんおもしろかったことってなに? いちばんつらかったことってなに?」ということなんです。
これもね、自分のことですから、答えやすいし、なによりその人のことがわかるんです。
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基本的に、人間って、自分の得意なことと他人の不得意なことを比べて、「自分は正当に評価されてない、不公平だ」って文句を言うんですよ。それは、自分でも、知らず知らずのうちにやってしまうことがあります。
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人は、とにかく手を動かしていたほうが安心するので、ボトルネックの部分を見つける前に、目の前のことに取り組んで汗をかいてしまいがちです。そうではなくて、いちばん問題になっていることはなにかとか、自分しかできないことはなにかということが、ちゃんとわかってから行動していくべきです。
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「いまよいとされているやり方は、ほんとうにただしいのか」ということを、わたしだけでなく会社中の人が疑ってかかって、変わっていく周囲の物事に敏感であるように仕向けていかないといけない、と考えています。
といっても、成功を体験した集団を、現状否定して改革すべきではないと思います。その人たちは善意でそれをずっとやってきて、しかもそれで成功してきている人たちなんですから、現状否定では理解や共感は得られないんです。
世の中のありとあらゆる改革は現状否定から入ってしまいがちですが、そうするとすごくアンハッピーになる人もたくさんいると思うんです。だって現状をつくりあげるために、たくさんの人が善意と誠実な熱意でやってきたわけでしょう? 不誠実なものについて現状否定をするのはいいと思うんですけど、誠実にやってきたアウトプットに対して現状否定をすることは、やってはいけないと思うんです。
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わたし、いまよりずっと若いころ、自分がものすごく忙しく感じていたころに、「自分のコピーがあと3人いればいいのに」って思ったことがあるんです。でも、いま振り返ると、なんて傲慢で、なんて視野の狭い発想だったんだろうって、思うんですよ。だって、人はひとりひとり違うから価値があるし、存在する意味があるのに、どうしてそんなこと考えちゃったのかなって、恥ずかしく思うんです。
いまのわたしは逆に、ひとりひとりがみんな違う強みを持っている、ということを前提にして、その、ひとりひとりの、人との違いを、きちんとわかりたいって思うんです。それがわかってつき合えたら、いまよりもっと可能性が開けるって、いつも思ってますね。
人にはポテンシャルがありますからね。
その、人々が持っているポテンシャルを、なるべく有効に活かせるようにすることは、組織のほうで助けられるんじゃないかと思います。
逆にいうと、組織のなかで内向きに消えていく力、無駄な方向へ消費されていくエネルギーってものすごくあるわけで、それの向きをそろえるだけでも、外に対してものすごく有効な力になると思います。
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わたしは、ただしいことよりも、人がよろこんでくれることが好きです。
自分の価値体系のなかには、「まわりの人がよろこぶ」とか、「まわりの人がしあわせそうな顔をする」とかいうことが、すごく上位にあるんですよ。もう、「そのためなら、なんだってしちゃうよ!」というところがあるんです。
一方、ただしいことというのは、なかなか扱いが難しい。
ある人が間違っていることがわかっていたとしても、そのことを、その人が受けとって理解して共感できるように伝えないと、いくらただしくても意味がないわけです。
わたしは困っている人がいたり、そこに問題を抱えている人がいると、その問題を解決したくなるんです。正確にいうと、目の前になにかの問題があったら、「自分だったらどうするだろうな」というのを真剣に考えずにはいられない。助けるというよりは、当事者として真剣に考えてしまう。
なぜ、そうなるのかというと、その人のことが好きだからでもかわいそうだからでもなくて、その人がうれしそうにするのが、おもしろいからですね。だから、あくまでも理念としてですが、問題が解決されたとき、その人がうれしそうにしてくれるのなら、それは誰であってもかまわないということになります。
ものをつくっていると、毎日の苦労は「人が苦労してやるしかない」ということと、「こんなことは機械がやればいいのに」ということのふたつに分かれるんです。
ですから、わたしは、早い時期から「機械がやればいいことを自動化する仕組み」をつくろうと思うわけです。
もともとわたしは単純作業にはすぐに飽きるんです。らくをしたいし、おもしろいことだけをしたいんです。だから単純なことで毎日何回も同じ苦労をするのが嫌でしょうがなくて......。
それを他人にさせるのもすごく嫌なんです。
2019年10月のおしごとEUREKA!
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン
「いいこと考えた!」と、こどもの声で聞こえる。
アイディアが出るって、そういう感じなんじゃないかな。
おそらく、だれでもがこどものころに、「いいこと考えた!」と言ったことがあると思う。
もしかしたら、「いいこと」とはかぎらないのだけれど、その直前まで解決していなかった問題に、
ピカッと答えが見える瞬間があるんですよね、経験も知識も少ないこどもなりに。
みんなが、しょっちゅう「いいこと考えた!」と、いたずらっぽく笑いながら言ってるような、
そういうチームが、ぼくの理想なんだよね。
言ってもバカにされないという環境がある。
「だったら、もっとこういうのもあるよ」と、「いいこと」をコロコロ転がしてくれるなかまがいる。
それを実現したくてうずうずしているやつもいる。
「いいこと考えた!」って、それを言えるような「場」があったほうが湧き出やすい。
「あ、おれもいいこと考えた!」と、しりとりのようにつながっていくのも、最高だ。
せっかく「いいこと考えてる」のに、だれも聞いてくれなかったり、望まれることがなかったら、
「いいこと考えた!」っていう回路が閉じちゃうよね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
遠慮するな、みんな。どんどんいいこと考えればいいんだ。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン
学校にいるときは、いつでも正解を求められる。
そして、問題があったら、ほとんどの場合正解がある。
かなり複雑な問題であっても、難解な問題であっても、
先生が正解を知っていて、そこにたどり着ける。
そういう練習をたくさんしてきていると、世の中のたいていの問題には、
こう答えたら正解だな、という答えがあるような気になりやすい。
仮に、あなたがなにかの問題について、街頭インタビューを受けたとしたら、
たぶん、「どう答えようかな?」と答えるべき正解を探そうとしてしまうだろう。
ほんとはなにを言ってもいいはずなのにだ。
放送で使われるかどうかは局が判断することなのだし。
しかし、まちがった答えを言わないようにと、正解を言おうとするのではないだろうか。
「こういうのがいちばんいい答えです」だとか、
「これが最も利口そうで正解に近い意見です」だとか、
ほんとは、そんな試験じゃないはずなのに、そんな答案を真剣に探している、みんなが。
どうしてなのだろうか?
たぶん不正解を出す人になりたくないのだ。
あるいは「わかりません」というのが恥ずかしいのだ。
しかし、試験問題じゃないのだから、
世の中には、これが正解と決められるような答えは、なかなかあるもんじゃない。
大人の社会では、こういう立場の人ならこう考えるし、
別の立場の人なら、当然こう思うだろうし、さらにこういう人は、こうしか言いようがない...
というような状況で、折り合いをつけていくのだ。
どれだけ他人の立場やこころを想像しようが、どこかでは痛みや傷もできかねないこともある。
「こうすればいいのに」なんて簡単に正解を言えるのは答案用紙のなかだけだろう。
こういう「正解社会」に巻き込まれちゃっているのは、むろん、ぼくも含めてのことだ。
ふ〜〜、なんとかしたいものだなぁと思う。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
沈黙という答えも、もっとあるように思うのだけれどなぁ
糸井さん、この「正解を言わなければいけない」脅迫観念のはなし、言いたいことはわかります。
自分にとってそんなに痛みが伴うわけではないのに、「遺憾に思います」なんてことを言う嘘くささ。
さらに、誰かに対して、「不謹慎だ」とか言い出してしまうのは、本当に良くないです。
だけど、この話の冒頭に、学校教育を話題に出す必要があったでしょうか。
この文章だと、学校が「正解を言わなければいけない」という脅迫観念を育てるための場所であるように読めます。
「先生は答えを知っていて、生徒はそれを知らない、という関係はアンフェアだ」というようなことを、
糸井さんはよく言うけれど、教育現場に立っていない人だから言う悪いレトリックだと思います。
先生は、生徒がまだ知らないことを知っていて、その優越感をひけらかすために、生徒に質問したり
テストしたりしているのではない。説明したことを理解できたか、確認するために尋ねるのです。
それは、眼医者さんが、「これ、見えますか?」と視覚検査をするのと同じ。
答えられる問題から順番に解いていって理解を深め、先生と同じ視野にまで 生徒も登って来てはじめて、
先生と生徒がフェアに議論ができるようになる。
最初に持っている力量の差はアンフェアでもなんでもない のではないでしょうか。
生徒を同じ視野まで連れてくる努力をしないでいるほうが、よっぽどアンフェアです。
問題は先生ではなく、生徒の頭と身体と心がちゃんと卒業したのか、というところにありそうです。
糸井さんこそ、「教育現場を攻撃しておけばいい」というような、安易な正解に頼っていないか?
Eテレで、『スクールカースト』について議論していた。
スクールカーストって何だ? そんな言葉があること、知りませんでした。
なるほど、簡単に言えば、学内における生徒の心理的な優越感と劣等感のことなんですね。
いじめに直結しているし、生徒にとっては大事な問題だと思うんだけど、こんな名前つけて呼ぶ必要ある?
そんなものは昔からあったし、心理的な優越感と劣等感の存在なんて、学園内に限った話ではない。
この番組は劣等感を持つ学生が、被害者意識を吐露することをかなり許容した内容であったんだけど、
「先生がえこひいきする」とか、「運動会は運動が得意なスター生徒の独壇場」とか、だからどうした?
「僕はいつでも一番でいたい」の甘えにしか聞こえない。それを諦めればいいだけの話ではないのか。
もう、なんでもかんでも、先生のせいにするのは、やめたほうがいいぜ。
「学校は社会の不条理を学ぶ場所だ」とか言う人が多いけど、その「不条理」って「チャンス」なんだと思う。
相手の弱みにつけ込むチャンスのことを言ってるんじゃない。
「不条理」と呼んでいるものは、もっと正確に表現すれば、「アンコントローラブル」なのでしょう。
自分の思い通りにならないからといって、「不条理だ!」と文句ばかり言ってるのか、
それとも「自分ひとりでコントロールしようとしなくてもいいもの」と考えて、
「他人は他人、私は私」と、自分のことに意識をもっと集中できるか、
当たり前だけど、後者のほうがずっといい。それしかないことに、はやく気づけよ。
自分だけじゃなくて、まわりのみんなが「私」なんだから、自分の思い通りになるわけはないし、
自分の事情とは関係なしに物事は進んでいく。というよりは、特段頑張らなくても進んでいってくれる。
それは、昇っては沈む太陽のようでもあり、寄せては返す海の波のようなもので、大きくて尊い。
そんな環境の中で、誰かと気持ちが通じることは、奇跡のようなもの。でも その奇跡は、案外、起こせる。
恋は「アンコントローラブル」だけど、そこがいい。
「(もしも君がボクを好きじゃなくても)ボクは君が好き」をちゃんと表現するしかないじゃないか。
相対順位なんか気にするヒマがあったら、思い出すんだ、「相手は自分の鏡」それは作用反作用の法則。
2019年9月のおしごとEUREKA!
一人ひとりの自己認識がチームを動かす
EIシリーズ「セルフ・アウェアネス」刊行記念イベント<講演録>より(Harvard Business Review)
「シェアード・リーダーシップは、日本で言う、『チームワーク』に近い概念かもしれません。
自分の専門性のある分野に関してはリーダーになるが、それ以外の分野ではフォロワーになる、といったようにリーダーとフォロワーを行ったり来たりしながら、共通の目標に向かって前進していくリーダーシップのあり方です」
1人のリーダーに依存するよりも、全員がリーダーとなる方が、メンバー一人ひとりのモチベーションが高まり、職場・組織への愛着も高まり、コミュニケーションも活性化し、各個人の強み、専門性を活かせるというメリットもある。
「自分探しって言いますけどね、見つかりませんよ。自分は『ここ』にいるんだから。これは、俳優・役所広司さんの言葉です。
紛れもなく自分はいまここにいる、だから、どこか遠くに行くのではなく、"いまここ"の自分にこだわり、自分の"行為"に対して得た"反応"を振り返り、気づきを得ることがセルフ・アウェアネスを高める本質的な方法だと思います」
2019年8月のおしごとEUREKA!
仕事の生産性を上げて1日6時間労働を実現しよう
スティーブ・グラベスキ(Steve Glaveski)
HBR.ORG原文:The Case for the 6-Hour Workday, December 11, 2018.
1日8時間労働制は、19世紀の社会主義を想起させる。
当時、組織が工場労働者に課すことのできる労働時間に上限はなく、産業革命によってわずか6歳の児童まで炭鉱で働くようになっていた。
その頃、米国の労働組合は、週40時間労働を普及させようと懸命に闘い、1938年にようやく公正労働基準法の一部に取り入れさせた。
その後、世の中は大きく様変わりした。
インターネットが、私たちの暮らし方や働き方、遊び方を根底から変えた。
仕事のあり方自体も大半が、アルゴリズム的タスク(決まった手順を機械的にこなす作業)から、ヒューリスティック(探索的/発見的)タスク―クリティカル・シンキング、問題解決力、創造力が不可欠な作業―へと移行した。
『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストに入った『ORIGINALS』の著者であり、組織心理学者のアダム・グラントはこう指摘する。
「仕事が複雑かつクリエイティブであるほど、労働時間に注目するのはまったく理に適っていません」。
とはいえ、1日8時間労働制はいまだに支配的だ。
「大半の人と同じように、リーダーたちも、過去を踏襲することに驚くほど長けています。たとえそれが現在には見合っていなくても」とグラントは言う。
ハンガリー系米国人の心理学者、ミハイ・チクセントミハイが1975年に提唱した用語を使うなら、ヒューリスティックな仕事においては、生理学的状態を「フロー」にすることが不可欠である。
フローとは、その活動に完全に没頭している状態を言う。「ゾーン」と呼んだほうがピンとくる人もいるかもしれない。
マッキンゼーが10年にわたって実施したフローに関する研究によると、経営幹部は、フロー状態に入ると生産性が最大500%上がるという。
バイオテクノロジー企業のアドバンスト・ブレイン・モニタリングによる研究でも、ライフル射撃の初心者を熟練レベルにまで訓練する時間は、フロー状態にさせれば半分に短縮できることが示されている。
今日の多くの組織では、稼働性(仕事上の要求に常に対応できること)、迅速な反応、会議への出席といった非生産的な行為が期待されることによって、フローが妨げられている。
アドビの研究結果によると、従業員は1日平均6時間をメールに費やしているという。
別の研究では、従業員のメールチェックは1日平均74回に及び、スマートフォンには1日2617回触れていることも明らかになっている。
従業員たちは、たえず気が散っており、ハイパー・レスポンシブ(即座に反応してしまう)状態にあるのだ。
ソフトウェア会社ベースキャンプの共同創業者で、『NO HARD WORK!』の著者であるジェイソン・フリードは、私のポッドキャスト「フューチャー・スクウェアド(Future Squared)」でこう語った。
プログラミングや執筆といった創造的な仕事をするには、目の前の作業で沈思黙考する時間が必要である。
「仕事で本当に深く考えることができたのは、いつが最後だったか。こう問われたらほとんどの人は、もう長い間、熟考できたことなんてないよと答えるでしょう。これはとても残念なことです」
典型的な従業員の1日は、次のような具合である。
・会議は1時間が通例である。通常なら各自が好きな時間にバーチャル上で対応できるような事項まで、議論する。
・仕事中に予期せぬ邪魔が入る。その原因はたいてい、オープン・プラン式のオフィス、インスタントメッセージ、デスクトップやスマートフォンの「ポン」という通知音である。
・可逆的でさほど重要性のない意思決定をめぐり、不必要な根回しをする。
・「受信ボックスゼロ」にやたらとこだわる。これは大半の職場で推奨されるが、実は「自分の目標より他人の目標を優先する能力」の象徴である。
・電話1本で足りるのに、しばしば遠方に出張し、直接相手に会う。
・1つの作業から別の作業へと頻繁に切り替える。そのせいで、大した成果を上げられず疲労感を覚えるという、認知切り換えによる代償(cognitive switching penalty)が深刻化する。
・すでに成果がほぼ出尽くしている特定のタスクを、長々と続けて時間を浪費する。
・初歩的かつ事務的な作業。
「人々は職場で多くの時間を浪費しています」とグラントは言う。
「断言してもいいですが、ほとんどの仕事では、集中していない8時間より、集中した6時間のほうが従業員の生産性は高いはずです」
カル・ニューポートも、ベストセラーとなった著書『大事なことに集中する』の中で、グラントと同様のことを述べている。
「毎日3~4時間、連続して、邪魔されずにディープ・ワークに取り組めさえすれば、私たちの生産性も生活も本質的に変わる」
これに賛同するフリードも、フロー状態になるのは半日ほどであると言う。
「1日4時間のフローを確保できないなら、それ以上時間をかけても埋め合わせにはなりません。オフィスに長時間いれば仕事がはかどるというわけではないのです」
テクノロジーは進化しているものの(おそらくはそれが大きな理由でもあろうが)、仕事量をさばくためだけに働いているうちに、気づけば午後5時をとうに過ぎている、という人は少なくない。
しかし、そうした状況は不可避ではないのだ。
私は、オーストラリアのメルボルンに拠点を置きイノベーションを支援するコレクティブ・キャンパスのチームとともに、2週間にわたり1日6時間労働の実験をした。
就業時間が短くなったことでチームメンバーは必然的に、仕事の優先順位を適切に定め、仕事の邪魔を最小限に留めて、特に1日の始業後の2~3時間はより計画的に仕事をするよう迫られた。
すると、チームは仕事の質も量も保つことができ、場合によっては向上することさえあった。
精神状態が改善したとの報告や、休息の時間、家族や友人と過ごす時間、他の取り組みに費やす時間が増えたとの報告もあった。
私がリンクトインでこの実験を発表すると、こんな書き込みがあった。
「理論としてはすばらしいが、自分は6時間じゃタスクを処理しきれないな!」。
これはまるで、すべてのタスクは同等だと言わんばかりである。
パレートの法則にあるように、20%のタスクが80%の価値を生み出しているものだ。
したがって、価値の高いタスクに集中すればいい。
あなたの率いるチームが少規模でリソースが限られているなら、次に紹介するような生産性向上のテクニックを取り入れてはいかがだろうか。
リーダーとしての役割は、成果を促進することであって、成果を出しているような気にさせることではない。
このことを肝に銘じておこう。
優先順位を定める
パレートの法則に従い、従業員の強みとチームの目標に見合った、価値の高いタスクに集中する。
削減する
付加価値を生まないタスクを縮小または廃止する。
手始めに、60分が通例の会議時間を30分に短縮し、通知をオフにし、メールのチェックを1回にまとめると非常に効果的だ。
自動化する
ステップごとのプロセスが決まっているタスクの場合、おそらく自動化が可能であり、人の手間を省ける。
外部委託する
自動化できない場合、委託もしくは外注できるかもしれない。
あなたのチームは時給10ドルの作業をするために給料をもらっているわけではないはずだ。
試してみる
分析まひ状態に陥ったり、見当違いな事柄に力を注ぎすぎたりすると、多くの時間が無駄になる。
マネジャーは、効果的な実験を行い、結果を測定し、その評価に応じて業務を設計することによって、時間の浪費を避けられる。
始動する
どんな方法でもよいので、自分のエンジンをかけよう。
カレンダーに時間枠を確保する。1度に1つのことだけに取り組む。難しい仕事から先にやる。
バイノーラル・ビート(左右の耳で周波数がわずかに異なる音)を聴いてみる。
もしくは、ポモドーロ・テクニック―タイマーをセットして作業時間を分割し(25分間ごとが通例)、間に短い休憩を挟むという時間管理術―を取り入れてもよい。
従業員に即座の反応を求めるのをやめ、邪魔されない時間を設けてフロー状態に入れるよう後押ししよう。
同時に、無分別に他者の邪魔をする行為を許容してはならない。
私のチームは、簡単なルールを決めた。
メンバーがヘッドフォンを装着していたら、待つことが絶対的に不可能である場合を除いて(もっとも、そんなことはほとんどないが)、外すまで絶対に邪魔してはいけない。
そうすることで職場でのストレスが軽減されることが、カリフォルニア大学のグロリア・マークの研究で示されている。
その結果によれば、米陸軍の文民職員にメールを5日間禁止したところ、自分の仕事をより適切に管理できていると感じ、ストレスのレベルが下がったという。
フローに入りやすい職場をつくり、勤務時間を短くすれば、生産性と成果を高める環境が整うだけではない。
従業員のモチベーションが上がり、ストレスが減ると同時に、人材の獲得率と定着率も向上することになる。
そして、オフィスの外の世界で起きている、さまざまな面白い出来事―つまり「人生」を生きることに、もっと時間が使えるようになるのだ。
組織はデジタル変革に多大な資金を投入している。
しかし従来の働き方を変えるだけで、それよりはるかに費用対効果の高い、飛躍的なメリットをすぐにでも得られるのだ。
たしかに、「気持ちはよくわかるが、うちの組織ではうまくいくはずがない」と応じるほうが楽だろう。
だが、時には努力して手に入れるべきものもある。
従業員に仕事でベストを尽くしてもらい、充実した人生を送ってもらうよう万全を期す努力には、間違いなく価値があるはずだ。
私がRPAの仕事を通じて目指していることについて書かれた論文です。
濱口秀司さんも、「フロー」や「沈思黙考」の大切さを説いています。(2018年2月のおしごとEUREKA!参照)
ただ、私は会議は必要だと思っている。60分の会議を30分にすればいい、とは思わない。
自分ひとりでできることは限られているので、ほかの人の力が必要になる。話し合わないことにはその力は得られないのだ。
沈思黙考のあと、話し合う。それは「会議」というか、佐藤可士和がいう「打ち合わせ」だ。必要に迫られてやる。
6時間労働がいいかどうか、もわからない。
"心から取り組みたいテーマ" はたくさんあり、それとは別に、やらないわけにはいかない課題もある。やはり6時間では足りない。
やらないわけにはいかない課題をどこまで減らせるか、どこまで一時的に忘れさせることができるか、RPAのポイントはそこだ。
しかし、今の喫緊の問題は、心から取り組みたいテーマを皆が持っているか、それを共有できるか、なのではないか と思う。
このサイトをつくっているとき、私はフローの状態にある。自分の考えをまとめておく場所をつくる、ということは効く。
坂中先生の想い出
僕は採用担当者ではないけど、面接をするとしたら、
聞いてみたい質問がある。
「自分の人生を折れ線グラフで描くとどんな感じ?」
横軸は年齢、縦軸は充実感で描くグラフ。
どんな形のグラフになってもいいのだけれど、
正直に上手に説明してくれて、
その人の充実感の感じ方が自社に合っていると思ったら
採りたいと思う。もしも僕が採用担当者だったらの話。
とはいえ、自分の人生をグラフに描いてみると難しい。
同時期に良い想い出も悪い想い出もあって、
悪い想い出も 時間が経てば悪くない想い出に変化する。
だけど、確実に言えるのは、
小学校4年生の時に充実感のピークがある、ということ。
坂中史先生が担任だった年だ。1981年かな。
坂中先生は当時24歳だった。
今想えば若かったけど、10歳の僕にとっては大人だった。
坂中先生に授業で何を教えてもらったかは忘れてしまった。
坂中先生の想い出は、休み時間の想い出ばかり。
坂中先生は休み時間に職員室に戻らなかった。
教室内の職員席で、僕たちと話をして過ごしてくれた。
昼休みには、毎日ドッジボールをしてくれた。
僕は2年生まで、給食を食べるのがクラスで一番遅かった。
昼休みと掃除の時間になっても食べ終わらなかった。
そんな僕も4年生の時は、みんなと同じ時間に食べ終わった。
先生と昼休みにドッジボールがしたい一心で、脇目もふらずに
一生懸命食べた。
昼休みのドッジボールにはクラスのほぼ全員が自主的に
参加した。たのしくてたまらないから みんな参加した。
特別なルールはなく、ただただみんなで本気で、
だけどゲラゲラ笑いながらやるドッジボールだった。
アンダースローのけんごくんがうまかった。
けんごくんは普段はあまり目立たず、勉強は得意じゃないけど、
昼休みのドッジボールでは大活躍だった。
みんながけんごくんを尊敬し、けんごくんのボールをキャッチ
できたり、よけたりできただけで、うれしかった。
ドッジボールでケンカはほとんどなかった。
こんなにたのしいのに、ケンカするなんて野暮だった。
そのドッジボールの中心に坂中先生がいた。
10歳の僕は「こんなにしあわせでいいのかな」と思った。
それくらいに本当に充実していた。
坂中先生に「アバって知ってる?」と聞くと、
カセットテープを家から持ってきて貸してくれた。
坂中先生にテープを返すとき、英語で御礼の手紙をつけたくなって、一生懸命に文章を考えた。
そのとき英語は単語ではダメで、文法が必要だとわかった。
友達と坂中先生のアパートまで遊びに行ったこともある。
部屋の中でゆっくりしたわけではないけど、
部屋の前まで遊びにくることを厭わない人だった。
今ではプライバシーとか、公私混同とかで怒られるかも
しれないけど、坂中先生にタブーはなかった。
子供が望むことを尊重して、対等のつきあいをしてくれた。
坂中先生が若い女性であった、ということが好きになる理由であったか、についてはNOだったように思う。
坂中先生のことが大好きだった理由は「人生をたのしもう」
と身体と言葉と笑顔でいっぱい表現してくれたからだった。
そんな先生は ほかにいなかった。特別な先生だった。
4年生の終わりに、母は坂中先生にセーターを編んだ。
終業式が終わってから、職員室にセーターを持って行った。
先生は受け取ってくれたが、ほかの先生が
「人気のある先生はいいね」と言った。イヤミっぽかった。
「やりすぎてしまった」と4年生の僕も思った。
翌年、坂中先生は担任ではなくなり、少し笑顔が減った。
僕が過剰なプレゼントをしてしまったことで、
先生に迷惑をかけたかも知れない、と思った。
ずっと、そのことを悔やんできた。今年ぐらいまでずっと。
僕の小学校卒業と同じ頃に、坂中先生は結婚して
小学校の先生をやめた。
幸せな退職なんだ、ということが少し救いだった。
もう40年近く経っているし、悔やみ尽くしたのもあって、
そろそろやめようと思う。
迷惑をかけちゃったかどうかはわからない。
それより、あの1年の想い出を大切にした方がよいと思う。
坂中先生のことを想いながら思い出した。Nくんのこと。
Nくんは同じクラスで、あんなにたのしいクラスなのに、
Nくんは当時生きるのがつらかった。
激しいいじめではなかったけど、Nくんの心が塞がっていたのもあって、みんな一緒にうまく遊べなかった。
坂中先生はそのことをずっと気に病んでいた。
「Nくんのこと、もっと大切にしよう」
そう言うときの坂中先生はとても真剣な顔だった。
僕は Nくんともっと近づいて 仲良くすればよかった。
セーターのことより、悔やむべきもっと大切なことがあった。
鈴木健夫先生の想い出
鈴木先生は、中学校の時の柔道部の顧問だった。
生活指導の先生でもあり、部活に来られない日が多かった。
柔道の腕前は五段だったと思う。
体幹がしっかりしていて、びくともしない。
厳つい顔つきで あだ名は「牛」だった。ブルだ。
鈴木先生は、柔道部の保護者会で、母達に話した。
柔道場は夜になると、不良生徒達のたまり場になる。
卒業生達も中にはいる。
荒々しい連中で、たいてい10人以上たむろしている。
夜の見回りで柔道場に電気がついていると、中に入っていって、「もう今日は帰れ」と追い出すのだと言う。
「こんな私でもこわいんです。柔道場に踏み込む前、
妻とまだ幼い子供達の顔が目に浮かび、深呼吸をします。」
と語ったそうだ。
ある日、鈴木先生と二人きりになった。
鈴木先生は私に「おまえはもう大人だ」と言った。
「二十歳になっても、いくつになっても、大人になれない奴もいるし、年齢を重ねなくても大人になるやつはいる。
言っていること、わかるか?」と先生は私に聞いた。
身に余る もったいない言葉だった。
私は「はい」と答えた。
先生は続けて私に聞いた。
「目の前に悪いことをしている奴らがいたら、おまえは
堂々と『やめろ』と注意できるか?」
僕は少し間をおいて「いいえ」と答えた。
先生が夜やっていることを母から聞いていたから、
本気の質問だったから、よく考えて正直に答えた。
先生は「なぜできないんだ?」ときいた。
僕は答えられなかった。
「それができる大人になれ」と先生が言って終わった。
先生が私にかけてくれる期待が心からありがたかった。
あのとき、僕は聞きたかったけど、勇気がなかった。
「ほかの方法ではダメですか?」
真正面から喧嘩になることもおそれずに向かうのではなく、
何かもっとほかの方法を模索したかった。
「ほかの方法ではダメですか?」が正しい答えであった
と言いたいのではない。今も答えはわからない。
糸井氏や多くの人が「イヤな奴から全力で逃げろ」と教える。
それはそれで正しいのだと思う。
だけど、私は鈴木先生から大切な問いを授かった身だから、
「それができる大人になれ」と言っていただいたのだから、
「全力で逃げろ」をそのまま鵜呑みにしてはいけない。
立ち向かうのでも、全力で逃げるのでも、ほかの方法を考える
のでも、どの態度を取るにしたって、いつだって、
「誰のために?」「何のために?」 それを考え続けるしかない。
「学校は "社会の理不尽" を学ぶところだ」とか、「学校で習うのは "再現性" で、"再現性" ばかりが育つ」とか、
そんなこと言うなよ。そう言う人がそれ以外のことを語るとき、良い着眼点で鋭いことを言うのに、
学校のことについては、そんな偏った表現をしてしまうなんて、それだけでダメだ。もう そんなこと、言うな。
一生抱きしめていくような幸せな時間と、一生かけて癒やす傷と、一生かけて考える問いと、一生忘れない恩。
学校には、たくさんあったはずだよ。
2019年7月のおしごとEUREKA!
なぜ日本の会社では"天才タイプ"が殺されてしまうのか?
2019年7月13日 5時30分 文春オンライン
なぜ日本の会社で、天才は殺されてしまうのか?
『社長の条件』(経団連・中西宏明会長との共著)で、経済界に激震を走らせている冨山和彦氏。
ベストセラー『天才を殺す凡人』著者の北野唯我氏とともに、日本型組織を徹底的に考察。
天才スティーブ・ジョブズも、一度は殺された
北野 『天才を殺す凡人』は、創業社長が天才タイプのクリエイターである、という設定。けれども組織が大きくなり、自分では管理ができなくなったため、秀才タイプのMBAを出た賢い人に権限を委譲していく、というストーリーなんです。
ゼロからイチを生み出す時期が終わり、会社が成長していく次のフェーズであれば、天才タイプの自分より、秀才タイプのほうが向いているんじゃないか。創業社長は葛藤しつつも、経営権を委譲させます。しかし、この秀才タイプがクセ者で、組織からはクリエイティブさがどんどん失われていく。
決して秀才タイプがダメと言いたかったわけではないのですが、秀才が持っている再現性には、くれぐれも注意しないといけない。なぜなら、秀才は説明能力が圧倒的に高いので、天才を殺そうと思ったら、余裕で殺せてしまう。天才を追い詰めるためのロジックを作り、天才のことが理解できない多数の人々(=凡人)を煽動することができるからです。
冨山 そうでしょうね。それこそ株をたくさん持ってでもいない限り、天才タイプはすぐに殺されちゃうんですよ。スティーブ・ジョブズですら、一度は自分の会社から追い出されちゃったんですから。
ただ、オペレーション(改良)の部分がどんどん大きくなっていくと、途中でまたイノベーションのストレスがかかってくるんです。一つひとつのビジネスの寿命が短いから、オペレーショナルモードも、もう長くは続かない。アップルも結局そうなったため、ジョブズは復帰できたのです。
ある程度、先が見えてくると、また別のものを創業しないといけない。そのストレスが連続的にかかり続けるのが、じつは今の時代です。そうすると、天才と秀才がグシャグシャに、時間と空間で入れ替わりながら戦い続ける、ということを企業体としてやらないといけなくなるでしょうね。
日本の企業の不振は、負け方が下手だから
北野 ひとつ、僕がずっと思っていたのは、日本人って、負け方が下手なんじゃないか、ということなんです。第二次世界大戦のときとかも、ボロボロになるまで負けてしまった。ゲームのルールが変わったときに、対応ができない。
人口が増えているときは、10戦戦って8勝2敗みたいな、そういう状態ができたと思うんですけど、人口が減少している今は、基本が3勝7敗みたいなものだと思うんですね。つまり人口増減は「勝率を変えるゲームチェンジ」だということ。そうすると、7回の負けのダメージをいかに小さくして、3勝でなんとかペイしていくか、みたいな戦い方が必要なんだと思うんです。
冨山 負け方が下手なのは、連続的な集団が前提になっているからです。負けたことを潔く認めると、次に敗因分析が来る。そうすると、誰が悪い悪くないの、なんて話が始まる。あいつのせいだ、あれがいけなかった、という傷口に塩を塗るような議論になるわけです。
それは、引き続き同じ共同体で毎日顔を合わせて生きていくためには、やりたくない作業。だから、共同体内の調和とかカンファタビリティというのが優先される。一番いい方法は、負けたんだか何だか、わからないふうにしちゃおうぜ、という(笑)。
北野 ありそう(笑)。
冨山 でしょ(笑)。モヤモヤッとして、結局それは政府が悪い、みたいな、外因的なところに問題をすり替える。自分自身の構造的な敗因を分析しないから、もっと戦況は悪化していく。
「どうしてガダルカナルで負けたのか」というのを、本当の意味では分析していないから、ズルズル状況が悪化する。「精神力で負けた」みたいなわけのわからない話になっていく。太平洋戦争のときと同じような敗北を、電機メーカーや一部の自動車メーカーは繰り返してきたんですよ。同質性や連続性の病理です。
組織の調和を乱す者を排除する力が、強烈に働く
北野 大企業を見ていて思うのは、再現性がどんどん強化されていることです。わかりやすくいうと、勉強って基本的には、再現性の世界じゃないですか。その中で勝ってきた人たちが大きな会社に入る。大きな会社の中では再現可能なものが求められるし、それが一番ビジネスにインパクトを与えるので、そこで成功体験を積むと、どんどん再現性が強化されていってしまうという構造がある気がしていて。
そうすると、創造性みたいなものを持っている人は、そもそも出世しないし、どんどん減っていく。『社長の条件』で経団連の中西会長が言われている、ちょっと異常時じゃないと、そもそも今の社長っぽい人は出てこない、みたいな構造があるんじゃないかと思うんです。
冨山 そういう組織において、お互いの安全保障において大事なことは結局、勝ち負けを組織の中で明確にしない、ということなんです。みんなで再現性の中に閉じこもっていれば、白黒つかない。だって、みんな同じ答えを持っていればいいわけだから。
そこで違う答えを言ったときに初めて、白黒ついちゃうわけです。Aという答えと、Bという答え。みんなAって言っていれば、全体で間違ったって、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」になる。「みんな間違っちゃったからしょうがない」で済む。中にいる組織の個人にとっては、実はそんなに危ないことじゃないんです。
そこで、「そうじゃない、Bなんじゃないか」というヤツが出てくると、こいつが正しかった場合に、残りの人間は全員、敗者になってしまう。Bはひょっとしたら正しいんだけど、こいつを置いておくと後でろくなことにならない、組織の調和を乱すので排除しよう、という力が強烈に働く。
企業は基本的には自由競争の中で生きないといけないわけです。組織における人事制度は、本来は企業として競争するための手段なんだけど、いつの間にか同質的で連続的な共同体の自己保存の手段になってしまっているんです。
北野 新しいチャレンジだ、といって、新規事業の機会もあったりするんですけど、1兆円の会社で300億円くらいの事業を作っても、大した話にはならない。時価総額ベースで3%しか影響ありませんから。一方で、スタートアップ企業なら、300億円って、すごい話なんですけどね。
冨山 本来、企業にとって大事なことは、あえて言えば粗利なり、利益ですよね。見かけの売り上げが1兆円の会社と、売り上げは100億円だけれども50億円が黒字の会社、どっちの事業が価値があるかというと、後者でしょう。
昔は日本は人口過多で、しかも増え続けていたため、100億円で50億円儲かる会社よりも、1兆円の事業を持ってそこで5万人雇えることのほうが、ある意味では社会的な価値もあった。けれども今は人口減少で人手不足となったため、もはやそこに価値はない。だったら、100億円で50億円儲かるほうが、社会的な価値がある。価値がどこにあるか、というのは、多くの日本企業は見直したほうがいいでしょうね。
天才を使いこなせない大企業、
天才はどこで生きていくべきか
北野 そうすると、やっぱり大企業には天才は入らないんじゃないか、という気がするんです。20代の働きがいが、すごく低い会社もたくさんある。創造性のある人は、違う会社に入ったほうがいいんじゃないかと。
冨山 本来そういうタイプの人は、ゼロからイチの起点を創る仕事をして、社会的に貢献できたし、自己実現もできたはず。けれども、行く場所がないから、天才的な才能があっても大企業に入っちゃうわけですよ。こうなったら、もう悲劇です。
入ってみたら、そこで行われているゲームは改良型ですから、天才な人が画期的なことを言ったって、「いや、それは君の言っていることは20年後には面白いかもしれないけど、今ちょっとそれどころじゃないんだから、これ直しておいて」みたいな話なわけです。
日本の大企業では、天才はたくさん殺されちゃったか、もしくはしょうがないから凡人のふりをして生きていたか、のどちらかでしょうね。日立の中西会長のような人は後者だと思う。 じつは中西会長は、スタンフォード大学大学院でコンピュータサイエンスを専攻したバリバリの理系。ご自身でもちょっと変わっている、というご自覚があったようです。けれども、日立のような大企業に入ったため、しょうがないから、凡人のふりをしていたのかも。そうしたら、自分が引退する前に、世の中のほうが激変してしまって、急に社長へとお呼びがかかったんですよ(笑)。
北野 やっぱり。
冨山 競合家電メーカーの東芝やシャープが悲惨な末路を辿ったのとは対照的に、川村会長(当時)とともに大改革を行い、奇跡的ともいえるV字回復を果たし、いまや日立は世界的なグローバル企業へと変貌しました。でも大概の人は、ああいう運には恵まれない。だから、天才タイプの人は、僕は早めに起業したほうがいいと思います。結論から言うと。仮にそこで失敗したとしても、いろんな学習ができる。そうすると、将来、大きな会社の経営者になれる可能性がある。
社会全体を大きなダイナミズムで捉えたら、天才的資質を持っている人をどう活用し、社会のためにどう使い倒すか、ということを、この国はもっと真面目に考えたほうがいい。もっと流動的に考えたほうがいいんです。
2019年7月20日 本日のダーリン(糸井重里氏)
スポーツの場合なんかだとわかりやすいですが、
多くのものごとに勝ち負けというものがあります。
勝つこともあれば、負けることもあります。
当然ですが、ぜんぶ勝つことはありません。
一所懸命に戦ったから勝ったとか、
いい加減にやったから負けたというものではありません。
勝てばうれしいし、負ければくやしいと思います。
そのことは、それでいいのですが、
負けた試合を大切にできるかどうか、
これがとても大事なことだというふうに、
最近のぼくは考えるようになりました。
負けたことは忘れて、気を取り直して明日に備える、
という戦い方もよくわかるのですけれど、
負けは負けで、いいところを探してやりたいのです。
負けのなかで、じぶんたちの力量が発揮できたこと。
負けたけれど、相手を怖がらせたこと。
かつて苦手だった相手に善戦できたこと。
予定してなかった選手が活躍できたこと。
ほんの1度の失敗がなければ、あとは勝っていたこと。
そして、なによりも、頭のなかが白紙になることなく、
どうすればいいのか必死で考えてやったこと。
...というようなことが、ちょっとでもあったら、
その事実は尊重するに値すると思うのです。
そこから、次にどうするか、次の次にどうするかが、
見えてくるのだと思います。
負けは負けなので、なかったことにしようというのでは、
負けのなかにあったいいことが見つけられません。
負けは大きな経験の一部分ですし、
少しだけ階段を上ったある日なのです。
ぼくが、こういう考えになったのは、最近のことです。
ぜんぶ勝つことが当たり前じゃない、
勝ったり負けたりがどっちもあるのが当たり前なのだと、
ごくふつうのことを、やっとわかってきたからです。
負けはあるに決っているのだから、
ないことにしてはいけないんだと気が付きました。
この負けという息子は、どんないいこだったのだろうか。
それをちゃんと見てやらないとね、と思ったのでした。
人生の勝率は、五割五分で優勝みたいなものですからね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大敗、惜敗、来るなら来い。勝ったら勝ったでうれしいし。
”同じ負けるにも、マシな負け方、ダメな負け方がある”
ということを、北野氏・富山氏と、糸井氏がそれぞれ言ってます。
北野氏・富山氏は「”負けた” という事実と、敗因をうやむやにせず、
ちゃんと分析して次に活かせ」という論旨です。
糸井氏のほうは、「負けの中にも勝ちを見いだせ」という論旨です。
正反対のことを言っているのではなく、負けをちゃんと振り返る
ことの大切さを説いているんですね。
それは表裏一体で『勝ちパターンの探求』でもあるのだと思います。
『負けの分析』と『勝ちパターンの探求』と どっちがたのしいか
といえば、後者だと思います。やることは同じことなんですけど、
勝ちパターンを探求するつもりでやった方が心理的負担が少ない。
私は 勝ちパターンを考えるのが大好きです。
どうすると勝つ確率が高くなるか、できるだけ流れで自動的に勝てる
ようにして、「ここだけは丁寧に判断する」というポイントを
最小限に抑えるにはどうしたらよいか、を考え続けるんです。
それを、個人レベルを超えて、集団でできるか、が 課題ですね。
できたら、すごくたのしいはずです。
北野氏・富山氏・糸井氏が口を揃えて「全勝はない」と言う。
でも、みんな「無敵無双」に憧れちゃうんですよね。
それを求めないようにするところが、重要な一歩だと思います。
私は「人生は2勝4分4敗」だと思っています。
人間は希望を抱いてしまうので、その分 勝ちより負けが増えます。
糸井氏が言うほど、多くの物事には明確な勝ち負けはありません。
点数がつかない事の方が多いわけで、今のは勝ち?負け?の判断を
自分自身でくださなければいけないことの方が圧倒的に多い。
勝ち負けの判定も、ルールも、実は自分で変えられるんだ ってこと
すごく大事なポイントなんじゃないでしょうか。
そして、たいてい、「あなたの勝ちは私の勝ち」であるし、
残念なことに「あなたも負け・私も負け」ということも多い。
ふつうにやってたら2勝4分4敗だけど、勝ち(価値)を届けることに
夢中になれば、勝率はあがる。勝ちパターンはそこにあります。
北野氏の「天才・秀才・凡人」理論とか、言い当てているかも
しれないけど、負けパターンについては説明できても、
勝ちパターンにつながる答えは そこにはない気がする。
だって、天才かどうか、なんて結果論で、わかんないじゃん。
富山氏はGAFAみたいな企業を念頭において、そんな競合企業と
どう戦うためにゲームチェンジをしろ、と言いたいのだろうけど、
GAFAみたいなネット企業なんて そんなに脅威だとは思わない。
彼らは自分達では何も持ってない 乾いた砂漠みたいなもので、
拡がるけど、人の潤った営みはもっと別のところにあるよ。
GAFAはそんな潤いへの憧れ・渇望の塊みたいなものです。
追い込まれてのゲームチェンジなんて、結果出ないよ。
「ゲームは自分達でつくる」という組織が強いんだ。
誰かに届けたい勝ち(価値)をちゃんとイメージできて、
どうやったら、いっぱい勝ちを届けられるだろうか、と
みんなで考え続けている会社であれば、凡人が天才を殺さないし
ごく自然にイノベーションするんじゃないかなぁ。
2019年6月のおしごとEUREKA!
ゆうりくんが「素数」を理解しちゃった話
ゆうりくんは「素数」という用語を知らないのですが、それがどんなものか、は知ってます。
11, 13, 17, 19は全部素数なんだ、と気づいてしまったのです。
それをゆうりくんに気づかせてくれたのは、なんと、YouTubeの「NumberBlocks」。
でも、11とか13とか、素数の回を観ている時に気づいたわけではありません。
16の回を観ていたときに気づきました。
16の回は見事です。4が4つで16。それがわかりやすく表現されていて、とても美しいんですね。
おとうさんが好きな数字は12。「12より16のほうがすごいね!」とゆうりくんが言うのです。
おとうさんは、「12は 1も2も3も4も6も みーんなお友達なんだ。16は 1と2と4と8とお友達だね。」
と教えてあげます。
お友達とは約数(1を除けば因数)のこと。その感覚は「NumberBlocks」を観れば理解できます。
「12のほうが数字はちいさいけど、16よりお友達が多い!」「でもやっぱり16の方が美しい!」
※16のような美しさはこれまでではじめて。次に同じような美しさがあらわれるのに81まで待たなければいけないような貴重な美しさ。
NumberBlocksのすばらしい動画のおかげで、ゆうりくんの年齢でも そのことは感覚的に理解できているはずです。
それを理解した上で ゆうりくんは 他の数字のことも考えてあげます。
そうして、「11, 13, 17, 19にはお友達が少ない」と思い当たるわけです。
11の回や 13の回は ゆうりくんは これまでに YouTubeで何度も観ています。
そして気づいていたのでしょうね、11とか13は四角にならずにでっぱっちゃっていることに。
11と13はかけ算で表現してあげることができず、10+1とか10+3という足し算表現になるのです。
それを観ていて、11と13にお友達がいないこと(素数であること)が 理解できたのです。
17と19は おとうさんと二人で考えてみて、どうやらお友達がいないようだ、とわかりました。
「YouTubeは毒、百害あって一利なし」などと乱暴に片付けないようにしよう、と思いました。
「何度も同じ動画を観るなんて時間の無駄」なのではなく、観ながらずーっと考えているんです。
そうして 「Eureka! (そうか、わかったぞ!)」という瞬間が、ビビビ!っと来ます。
その瞬間を大事な成長につなげるためには「子供が観たいものを一緒に観る」に限ります。
「NumberBlocksのように教育目的でつくられた、よく練られた動画なんてみない」
という子供だって、動画を夢中で観ているのなら、必ず何かを想いながら観ています。
そこから、その子が いま何に興味を持っているのか、が わかるはずです。
動画を観て ただただゲラゲラ笑っているのなら、それはその子にとって とても幸せな時間です。
「将来の夢はYouTuber」と10歳のYouTuberについて
「でもさ、将来の夢を『YouTuberになる』って書く子いるでしょ、そういうの、イヤなんだよね」
という意見もあると思いますし、私もずっとそう思ってました。
最近では、不登校の10歳児が YouTuberをやっていることの是非、のような話題もありました。
「それでもYouTubeって害はないと思う?」とは 誰にも訊かれていないけど、そのことについても考えてみました。
まず10歳児のYouTuberについていえば、「大人が騒がないほうがいい」と思っています。
その子が10歳でなければ、そして不登校児でなければ、まったく話題にならなかったはずのことです。
急に脚光を浴びて、その子がどのように感じているのかわからないけれども、
どんな動画をつくっているのか覗いて「良いじゃないか」とか「くだらない」とか言わないほうがいいと思います。
YouTubeの仕組みでは、観た人の数、良い反応/悪い反応の数が見えます。
その数がたぶんものすごく積み上がっているだろうと思うのだけれど、覗いて観たり反応したりしないほうがいい。
その子のことをよく知らないで、「生意気だから"Bad!"」とか「私も学校嫌いで気持ちがわかるから"Good!"」とか、そんなふうに安易に評価をしたら、その子は ますますわからなくなっていってしまうように思います。
ニュースになる前の数値が、その子の実際の影響力なのであって、その子はそれをそのまま受け止めたほうが良い。
そして社会の側は、それがニュースで報道されるまでは、「知らないで済んでいたこと」であることを思い出して、
社会を脅かすような大した問題ではない、とノーリアクションで片付ければよいのではないか、と思っています。
「将来の夢」については、子供に見えている社会は狭く、知っている範囲で最も好きなことを言ってるだけだから、YouTubeを愉しく観ている子供が「YouTuberになりたい」と書いたところで 驚くようなことではありません。
今、幡野広志さんの『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』を読んでいます。
その中で、幡野さんは、「将来の夢を職業で書くのは違うのではないか」と言っています。なるほど、そうだね。
だけど、職業で言わせているのは大人の方で、職業で言わないとするとなんて言ったら良いのか、難しくなる。
(ゆうりも「大きくなったら何になる?」が 何を訊かれているのかわからなくて、混乱している)
「YouTuberになりたい」というのは、「一生おもしろがって生きたい」という意思表示なのだから、
いいんじゃないでしょうかね。大人になれば、YouTuber以外におもしろがれる仕事が見つけられるはずです。
唯一ね、「先生になりたい」という夢はね、それはいいねぇ!って思いますね。
本当に先生になるかどうかは別として、大好きな先生に巡り会わないと そうは言えないはずです。
先生みたいに 優しくて 物知りで、すてきな人に私もなりたい。いいじゃないですか。
10歳のYouTuberさんも、幡野さんも、学校のことを良く言わないし、「学校とは『理不尽な社会』を学ぶ場だ」
と言いたがる人が最近多い。そういうのを聞くと「どんだけ受け身なんだよっ!」と突っ込みたくなる。
そういう人達はどこか、「自分はひとりで育ってきた」なんて思い込んでいると思う。
自分がひとりきりで 今の自分をつくってきた、他の人達は自分の「環境」だった、なんて思ってるんじゃない?
そうじゃないことに 私は6年生の学校の帰り道に気づいて、驚いたんだ。
この道は、どこまでもどこまでも続いているんだな、というのが最初におもったこと。
だけど、ボクが行かない場所にまで道路が続いている必要はないんじゃないかな、と考えた。
そうか、もしかしたら道路が続いているというのはボクの思い込みで、本当はボクのまわりにしかないのかもな。
新幹線に乗っている間にみている風景はテレビの映像で、ウラで一生懸命舞台の模様替えをしているんじゃない?
ボクが主人公で、周りの人はみな、ボクをたのしませようと劇をしている、そうなのかな。
もう6年生だから「そんなわけない」とすぐにわかった。ほかの誰かが主人公でボクが劇をしているのでもない。
ということは・・・ 誰も彼もが、みんながみんな「私」ってことかっ!? まじかよ、Eureka〜!!
驚いた。ひっくり返るぐらいに驚いた。そうして、『それはすごいことじゃないか!』と心の中で拍手したんだ。
5月・6月と「YouTubeもいいんじゃないか」理論を展開してきましたが、注意点も。
英語をたのしく勉強できる学童に見学に行ったときのこと。
最初は初めての雰囲気におそるおそるだったゆうりも、すぐにたのしくなっちゃって、大好きな英語を
はなしはじめました。先生が私に「ゆうりくんは、どこで英語を勉強しているのですか?」と聞くので
「YouTubeです(苦笑)。観ていると、すぐに英語の動画に迷い込んじゃって、それでも絵が面白いと
英語でもロシア語でも、言語関係なく観ちゃうんですよね。BBCの子供向け番組とかが好きなんです。」
と説明すると、「ええー!それで英語憶えるんですね!」と驚いてくださいました。
でもそのあと とても大切なこともおっしゃってくださいました。
「YouTubeでネイティブの英語をいっぱい聞いているから、聞き取る耳も発音もいいんですね。
だけど、ゆうりくんには こういう環境(英語の先生がいる教室)でもちゃんと学んで欲しいんです。
動画を観ているだけだと、その言葉が持つ意味がきちんと理解できないんです。
言葉は発して、相手の反応があって、はじめて正しく身につくのだと思います。
特に良くない言葉はそれを先生に言ったときに、『えっ、そんなこと言っちゃダメだよ』という反応をされる
経験を通じて『使わない方がいいんだな』ということが理解できますが、YouTubeではそれが難しいです。
『ちゃんと人と話す』ということが、言語の上達においてはとても大切なんです。」
言語の上達もそうですけど、心を交わすことの練習も YouTubeではできないですね。そこは大切なポイントです。
長年、「死んだらどうなるんだろう?」と考えて生きてきました。表裏一体で「私は何なのか?」ということです。
ちいさい頃、あのときは何歳だったのか、「ボクもいつかは死ななければいけない」と思って、悲しくなりました。
そのあと、最近は、死んだ時に「実はね、こういうことだったんだよ」と種明かしをしてもらえるんじゃないか、
と思って、その種とか仕掛けとかを早くみたくて、死ぬことがあまり悲しいものでも怖いものでもなくなりました。
でも、今は、考えを進めて「私イコール脳なんだな」とわかってしまい、ちょっと拍子抜けしてしまっています。
たぶん、死んだあとに誰かがやってきて種明かしをしてくれることはない。ただ単に、おしまいになるんですね。
「死後は苦しいのかも」と心配しなくてよいのですが、死とともに おしまい が来るのはさみしいです。
「私」というのは「魂」みたいなものが身体に乗りこんで操縦しているのだと思っていたのになぁ。
「我思う、故に我あり」。こんな風に考えている私がいる、ということは すごく不思議です。
あまりに不思議なので、身体が終わったとしても続いていくような、魂の存在を信じたくなります。
輪廻転生とかも「仕組みはよくわからないけど、あるでしょう、きっと」と思ってました。
「私」という自我があるんだから、感情があるんだから、それは何か特別なものなんだろうと思っちゃいますよね。
でも、冷静に考えてみると「脳が一人称で考えたり感じたりしなければ、いったい何人称で考えればいいんだよ?」
というはなしですね。脳は体内にあって、それ単体ではあまり機能しない。目や耳や皮膚などの感覚器とか、
手とか足とかが いてくれないと機能できないんだけど、感覚器も手足も外側に向かって付いているものだから、
脳はどうしても一人称にしかなり得ない。それが自我。あぁ、そうか、それだけのことか。
うまれていきなり「私」があるんじゃなくて、身体と脳の発育によって自我が芽生えるのは、そういうことか。
生きるために、外からの刺激から 何が周りで起こっているのかを理解したり、自分の身体をそれに適合させたりするのが脳の役割だった。なのに、大脳新皮質やら海馬やらが長期間の記憶を持ち始めちゃったり、外からの刺激なしに自分自身で電気信号を起こせるように(=自分で考えることができるように)なってきちゃったおかげで、
なんだか ややこしいことになっちゃったんでしょうね。
"高機能な手"を持ったことが またさらに厄介だったんでしょう。
文字を書いたり、自分を変えるかわりに環境を変えたり、「試行錯誤」ができるようになってしまった。
最近では拡張脳としてのコンピュータもつくっちゃった。
もしかしたら 脳はさらに進化を進めて 一人称からの脱皮をはかろうとしているんじゃないですかね。
そうかもしれない。ITだけじゃなくて、脳まで「ネットワーク」「クラウド」に向かってんじゃない?
ていうか、そもそも ITって脳か。そうだね、そうかもしれない。
「でも、一人称からの脱皮って言ったって、それ、えらい大変なことだよ?すごいストレスでしょ。」と思うけど、方向性としては、そっちに向かってるんでしょうね。よくわかんないけど。
2019年5月のおしごとEUREKA!
『知識ゼロからのRPA入門』という本に
私の名前が載りました。
2ページだけですけど、メディア初登場です。
だけどまぁ、この本、本当にわかりにくい。
RPAをこれからはじめようとする人が
これを読んで「なるほど、面白くなってきたぞ」
なんてことにはならないと思います。残念。
「それ、RPAでできます」
RPAで自動化できる仕事を列挙してあげれば
それでよかったんじゃないの? と思います。
同じことは intra-martのセミナーでも感じました。
intra-martのサービス群を順番に説明するより
「それ、intra-martでできます」
とユーザ企業にありがちな業務とその壁を
どのように intra-martのサービスを組み合わせる
ことで乗り越えられるのか、
それをたくさん説明してくれればよかった。
「RPAは人事」と繰り返し書かれているのですが、
その論理がわかりにくい。
取り組んでみて、それはたしかに事実だと思います。
だけど「RPAは人事」という表現ではわかりづらい。
「要は新入社員だと思えばいい」という日本生命さん
の取り組み姿勢こそが正しく、わかりやすいです。
ユーザ部門と話をするとき、ロボットを「人」として
表現したほうがよい、と最近思うようになりました。
「ロボットに○○機能を追加する」とは言わず、
「ロボットに○○のしかたを教える」と表現する。
以前は「そんなのバカらしい」と思ってたけど、
ユーザ部門の自主的な参加姿勢を引き出すうえで、
ここは重要なポイントなのだと思います。
「今のロボットが完璧に業務ができるか」ではなく
「次に何を教えるともっと上手にできるか」
という視点をユーザ部門に持ってもらうことが大切。
それはもう、子育てのよう。
いまの医者もそうだけど、目の前にいる患者さんの状況を、
「統計値からずれてるかずれてないか」で判断して
治療します。それは「現在しか見てない」ということです。
この話はあんがい深くてね、
「現代人は、じつは現在しか見てないんじゃないか」
ということになってくるんだ。
(養老)
羽生善治さんは「AIは美しい手を打ってこないんだ」
とおっしゃってました。
将棋でもチェスでも、人工知能に解かせると、
考えることなしに、しらみつぶしに計算して証明します。
だから強い。それをリスペクトしたうえで思うのは、
やっぱり「美しくない」ということなんです。
(池谷)
ぼくら育った時代には、矢野健太郎さんの
『エレガントな解答』が流行ってました。
エレガントは省エネで、きれいなんです。
コンピューターは、力まかせ。高エネルギーです。
(養老)
そういえば、脳ってとことん省エネなんですよね。
1日わずか20ワットぐらい。
1か月ずっとつけっぱなしでも、
電気代にして400円ぐらいで、脳は動くんですよ。
(池谷)
この養老氏と池谷氏の対談も、「生きているのは なぜ だろう。」という本も、私は好きではないです。
とても根源的な話題に触れているとは思いますが、「根源的であればいい」というものではない。
その話題について、知って、考えることで、「そうか、わかったぞ!」となるならいいのだけど、
ふたりの科学者が、「きみ、それ、本当に信じてるの?」を振り回す様子は見苦しい、とさえ感じます。
時計は世界に無数にあって、それらはみんな同じように進んでいき、天体の動きとも一致する。
ごまかせない事実として、私達はそれを信じている。
その時間の前進を疑って、どんな新しい世界が見えてくるというのでしょうか。
疑う姿勢はあってもいいんです。でも「疑ってみるとホラね!」までセットで語るべきなのだ。
それを語らずに、したり顔で「それは人間の思い込みかもしれないよ」という。
養老氏は、教育を茶化して「なんでもあり」だというが、「なんでもあり」なのはあなたの態度のほうでしょう?
「でも時計は同じに進みますよね?」「で、どうしたいんですか?」と聞きたい。
そこちゃんと聞けよ、ほぼ日 菅野。訊かないから「なんでもあり」になっちゃうんじゃないのかよ。
もともと「なんでもあり」こそが人間がもつ強さであって、「でもメチャクチャな"なんでもあり"はダメだよ」
と最低限のルールを学ぶのが教育、そのルールのもとで「こういうことなんじゃない?」と先人たちが
一生懸命に残してくれたものが科学なのでしょう。
本当なら、もっとちゃんと語れるはずの養老・池谷両氏が、場が伴わなくてグダグダになった。
やっぱり、ちゃんと場をつくることは大切なんだね、と感じる対談でした。
『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』 幡野 広志
「子どもって人生において選択肢を選べることが少ないですよね。
"与えられた"や"奇跡"という綺麗な言葉で言い換えることもできますが、
親や家族はもちろん、生まれ育った地域で最初の友人も決まるわけです。
社会の大人からいい子であることを求められて、子どものころから選ぶ習慣がないから、
大人になっても自分の人生を選べない、考えることが苦手な人がいるんだなぁと感じます。
子どもの頃って、どうしても選ぶことができないけど
大人になったり、病気で人生が短くなってくると、
じつはなんでも選べるし、選ばないといけないんですよね。
生きにくさを感じている人に、生きやすさを感じてもらえることを願っています。」
2019年5月12日 本日のダーリン(糸井重里氏)
ふと思い出して手にとった『クマのプーさん』から、
訳者の石井桃子さんの訳文について考え、
映画『プーと大人になった僕』を観ることになり、
さらには『石井桃子のことば』という本を読んでいる。
その本の、表紙をめくったところに
黒いインクで書かれた作者のことばがある。
子どもたちよ
子ども時代を しっかりと
たのしんでください。
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です。
石井桃子
2001年7月18日
なんでもなくさえ見えるような、このことばは、
ぼくのこころには、ずいぶんとしみた。
子どものころに、大切にしていたぬいぐるみも、
たくさんのおもちゃも、絵本も、歌も、
なにかの役に立つということは、たぶんない。
少しでもなにかの役に立てようとするならば、
ぬいぐるみを抱いているよりも、足し算や引き算、
漢字やら外国語の勉強をしているほうがいいだろうよ。
でも、ぼくらは、わりと自信を持って言えるよね。
ぬいぐるみで遊んでいる時代に、
なにか役に立つことばかりをやらされた子どもは、
こころの真ん中にあるはずの、なにかが育たない。
そのなにかというのは、そうだな、
人が生きるのを支えてくれる、
「人らしさ」みたいなものだよ。
人間にとって、どんな能力やら道具やらより大事なのは、
たぶんその「人らしさ」みたいなもの、だ。
それがたっぷり詰まってる人には、いいことがあるよね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
子ども時代のじぶんに、ほんとうに助けられていると思う。
わたしは、旅行会社に勤めています。
「幼児を旅行に連れていくのって、意味ないですかね。どうせ憶えていないでしょうし。どう思います?」
というような質問を実際にされたことはないのですけれど、その問いに対する答えはあります。
「絵本のように考えればよいのではないでしょうか。自分が幼児のときに どんな絵本を どんなふうに読み聞かせてもらったか、
残念ながら私は憶えていません。ですけど、母は私に本を読み聞かせてくれましたし、私も自分の子供に絵本を読みます。
憶えておいてくれなくても、絵本は読んであげたいし、旅行にも連れて行きたい、それでいいのではないでしょうか。」
それから、話は変わりますけど、ゆうりの成長については「ものすごく伸びている」と感じます。
「それに比べて大人の自分は伸びていない」のか?というと、実はそんなことない。ゆうりに負けずに 私も伸びています。
1年前の自分にはできなかったことができるようになっていて、1年前の自分が考えていなかったことを考え、知っています。
ゆうりが急激に伸びていると感じるとすれば、1年が私の人生の2%程度にすぎないのに対して、ゆうりの人生の17%にあたる
ということからくる錯覚もあるでしょう。実はどっちの成長のほうが速いというものでもないのだと思います。
「ゆうりの父親になったことで自分の成長が加速した」ということは、あるだろうな、と思います。
2019年5月8日 本日のダーリン(糸井重里氏)
ラジオを聞きながら「言ってることがわかる」
っていうのは、かなり高度な頭の使い方だろう。
「1アウト一三塁、ゲッツー態勢の中間守備。
右打席には中村、1ボールからの第2球を...」
などという野球中継の情報を耳から入れて、
野球ファンは、それをじぶんなりの画像にしている。
チームの選手たちを知ってる場合には、
投手の顔や投球フォームも、
打者の足の速さやスイングも、すべて想像できて、
次に何が起こるか、その瞬間を待っているわけだ
...などと書いている、この文だって、
わからない人にはほとんどわからないはずだ。
音声だけのスポーツ中継はもちろんむつかしいけれど、
落語なんかだって、ことばで表現されている世界が、
いつの、どんな場所で、どんな話になっているのかを、
簡単に理解できるとは限らない。
思えば、ある時代まで、大人もこどもも、
「ラジオ」で表現されている内容を、
ある程度は理解できることを前提に生きていたんだよな。
小学生のころのぼくのたのしみのひとつは落語だった。
わからないところもあったけれど、おもしろかった。
わかろうとしてくらいついていた、という気もする。
音声だけの表現をもとに、頭のなかに絵を描いて、
その絵を見つめながら受け止めていたのだろう。
同様に、文字だけで書かれた小説を読むことも
ラジオの音声から絵を想像するのと似ている。
ことばだけで表されたものをもとにして、
そこからじぶんの頭をつかって
「わかる」「見える」を実現していくことは、
なにかすばらしい人間の力であるように思う。
すぐにわかるように、だれでもわかるように、
などという「商業的親切(?)」が発達したおかげで、
じぶんの頭、じぶんの想像力を強くする機会が、
けっこう失われているのではないだろうか。
石井桃子訳の『くまのプーさん』の文章なんて、
いま読んだら、実におとなっぽいんだよねぇ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
6割とか7割の「わかる」で読み進めるのも、悪かないよね。
高校3年の小論文の授業で、同じようなことを書きました。
『自分はラジオを聴く環境で育った。アナウンサーが話す言葉を頼りに、その光景を自分の頭に描きながらニュースを聞いた。
実のところ、その想像上の光景は、実際にテレビで見ると違うことも多かった。だから、テレビで観た方が正確に状況がわかる。
そうなんだけど、テレビで映像を観てしまうと、何だかさびしくもある。もう考える余地があまり残されてはいないのだ。
テレビの映像はインパクトが強くて象徴的なものが選ばれて使われる。それ以外のシーンを観るチャンスがないままに、
私達はニュースを受け取り、その範疇で理解した気になってしまう。みんなが同じ理解を得たような気持ちに簡単になれてしまう。
ニュースの当事者は、ニュースで流れた映像以外のシーンも観ているだろう。そこから総合的に感じ取った当事者たちの感覚と
テレビ映像だけを観ている私達の感覚の間には、実はかなり大きな隔たりがうまれていたりしないだろうか。
それなのに、私達はすべてわかったつもりになってしまう。そんな危うさの中に私は生きている。』というような内容でした。
もう何十年も前に書いた小論文の内容を 今でもおぼえているのは、「おもしろい」と言ってくださった先生のおかげです。
『うごく、ゆうりくん』も、意図的に切り取った「事実の一部」です。だからといって、仮に『うごく、ゆうりくん』から映像を
取り除いて 音声だけにしても、編集してダイジェストにしている時点で、「一部」であることは免れません。
ですが、映像を用いると、「説明を省いてしまえる」という安直さにつながりやすい、そのことは気になっています。
リラックマと、クレヨンしんちゃんと、仮面ライダー
ゆうりは、戦隊モノに興味がありません。というか、苦手だと思います。
まわりの子供たちが、戦隊モノに はまっていくのに、ゆうりは ぬいぐるみを抱えて出かけ、リラックマを観ます。
クレヨンしんちゃんの映画を観に行きましたが、途中で「こわい」といって映画館を出ました。
ゆうりは、そんな自分を「意気地なしでかっこわるい」とは 思っていないようです。そこがすごいです。
ゆうりには「悪意・敵意センサー」があるんだと思います。娯楽映画であるはずの クレヨンしんちゃん の
登場人物の中にも 悪意・敵意を感じとったから、それを見続けるのをやめようと考えました。
戦隊モノは、悪意・敵意のカタマリのようなものなので、観ようとはしません。
先日よみうりランドに行ったら、仮面ライダーショーをやっていて、仮面ライダーが髑髏のおばけと戦ってました。
髑髏のおばけは強く、仮面ライダーはピンチが続きましたが、最後は力を合わせてなんとか勝ちました。
ゆうりは、「仮面ライダーが負けちゃったらどうなるの?」と聞いてきました。
「どうにもならないよ、心配しなくていいんだよ。髑髏のおばけなんていないんだから。
仮面ライダーはね、ケンカをして勝ちたいんだよ。でも、弱い子とケンカをして勝ってもうれしくないし、
何にも悪くない子とはケンカできないよね。だけど、仮面ライダーは どうしてもケンカしたいから、
やっつけちゃってもいいような すごく悪くて強いヤツがいる、ってことにして、ケンカしているんだよ。
もしも、仮面ライダーが ケンカなんかしなくてもいい、勝たなくていい、と思うことができたら、
髑髏のおばけなんていなくなっちゃうんだ。ケンカをしないゆうりのところには、髑髏のおばけは来ないよ。」
ゆうりにそんなこと言ったってわからないだろうな、と思いながら禅問答のように質問に答えていたら、
ゆうりが「うん」とうなづきました。「髑髏のおばけはいない」ということに安心した「うん」だったかも
知れませんが、もしかしたら、私が言いたかったことを ある程度、理解できたのかもしれません。
「壁を押すと、壁が同じ力で私を押してくる」。作用反作用の法則です。
2019年4月のおしごとEUREKA!
親鸞ファン宣言!西本願寺「日曜講演」のトークから
釈徹宗+糸井重里
https://www.1101.com/n/s/shinran_fan
「浄土のために、現世で準備をしなければいけませんか?」
「現世では なるべく良い人として生きます。
現世では『南無阿弥陀仏』は一度も唱えませんが、
来世で阿弥陀様に会ったら唱えます。それでいいですか?」
というのが、今の世を生きる私の偽らざる問いなのだけれど
ズバリの答えは見つかりません。
その問いは自分に問い続けなさい、ということですかね。
以前から思っていたことですが、こんな親バカサイトをつくる私も
一歩間違えば、子供を虐待する可能性は多分にある、んです。
子供が言うとおりにしなくてイラッとする、
子供に少し意地悪をする、そんなことはよくあります。
それは「子育て」の名の下に正当化されてしまうし、
実際には子供の意にそぐわないことを親がさせなければならない
こともあります。紙一重のところにいるんだ、という自覚、
いつもスパイラルだから、方向を負から正に切り替える努力、
それを忘れてはいけない、と思います。
ねむりと記憶。
池谷裕二 + 糸井重里
https://www.1101.com/suimin/ikegaya/index.html
「いけたに」「いけや」ではなく、「いけがや」さん
なんですね。池谷さんの話は とてもおもしろいです。
『睡眠は大切』ということを、この記事のように
説明してくれたら、「そうかー!」とすぐわかるのにね。
まさに Eureka! です。
前にも書きましたが、死については、ずっと考えています。
糸井さんが言うように、「ずっと」というのは持続する時間ではなく
回数のことで、よく「死んだあと私はどうなるのかな」と考えます。
「私はどうなるか」というより、”一般的に” どうなるのかな、です。
眠ることは、死ぬことに似ている、そう思ってました。
「自分の意識がなくなる」から ですね。
身体はそのまま生きているけど、魂のようなものは毎日死んで
生き返っているのかもしれない、と思ったことがありました。
今回の池谷さんの話は、それを完全否定するものではないけど、
眠りはやっぱり、死とは別なんだろうな、と思わせてくれました。
2019年2月のおしごとEUREKA!
ほぼ日 おいしい店とのつきあい方。116
サカキシンイチロウ
先日、ひさしぶりに母と食事をしていたときのコト。
あの調理実習の話をしてみたのです。
目玉焼きを作りなさいという課題に対して、
ハムエッグを作って叱られたんだよね‥‥、って。
母もそのときのコトは随分、はっきり覚えていたようで、
そうそう、あのときは担任の先生から
丁寧な手紙も頂いたのよ。たしかこんな内容だった。
「シンイチロウくんは、誰にもないユニークな目線や
発想の持ち主。
ときおり、ハッとするようなことを言ったり、
したりして、教える者が教わるようなコトがあります。
ただ、その発想を他に伝えることがまだ上手ではなく、
考えばかりが先回りしてしまう。
今回の調理実習の件も、
自分が作りたい目玉焼きの作り方を
正しく説明することができないことから、
結局、自分でみんなの分も作ってしまったのだろうと
推察します。
教科書通りにしなさいと言えば言うほど、
教科書とは違ったものを作るに違いなく、
むしろそのユニークな考えをのばしてあげるような
指導を心がけようと思います。
お母さまはぜひ、シンイチロウくんが
自分の考えを正しく伝え、説明できる力を育むよう、
ご指導いただけると助かります」
母は言います。
ユニークな発想はおおいに結構。
だってワタシの息子なんだから。
でも、その発想を正確に伝えることができなかったコトを
指摘されたら、謝るほかはないでしょう?
おっしゃる通りですってお詫びの手紙を書いたわよ‥‥。
そう言う母に、ボクは言いました。
「でもおかぁさんはボクに、
なんで同じ班の人たちの好みを聞かないで
自分の食べたい目玉焼きを作ったんだ、
って叱ったんだよ」って。
母の答えはこうでした。
説明不足と思ったら、人の意見を聞く。
聞けば、もしかしたらよい説明のきっかけを
つかめるかもしれない。
だから、なぜ、他人の好みを聞かなかったのと
言ったつもりだったのだけど、
伝わらなかったとしたらごめんなさい。
どんなに発想がユニークでも。
どんなに表現力が豊かでも。
説明する力がなくては、人の心を動かすことなど出来ない。
説明力に、人の気持ちを聞き出す力がともなって
はじめて人を説得するコトができるようになる。
説得する力は、大人になって仕事をするときに
とても大切な力だから、
それをあなたに身につけてもらえるようにと、
いろいろ愛のムチをふるったものよネ。
RPABANKの記事より
元Google本社副社長・村上憲郎氏に聞く
人間の役割は、AIの出現によって変わります。最終的には、働く必要もなくなるでしょう。
みなさん働くことは"義務"と思われているでしょうが、むしろ"権利"なんです。
マーク・ザッカーバーグが5月、ハーバード大学の卒業式スピーチで、「ユニバーサル・ベーシックインカムをやるしかない」と言っちゃったわけですよ。彼が言うユニバーサル・ベーシックインカムというのは一番極端な方法で、オギャーと生まれたら誰でも毎月20万円くらい、生活できる1人分の額が口座に振り込まれるというものです。
働く必要もなくなり、エネルギーもタダになる。何が起こるのか。「ついに資本主義が終わる」ということですね。
マンキューでもそうだけど、経済学というのはこれまで、希少性(scarcity)を原動力に回る経済が前提で、だからこそ資本を含め、希少な資源をどう最適に分配して効率を上げるか探求してきた学問なんです。ところが、これからは違う。モノがあふれている「潤沢さ(abundance)」を前提とした、新しい経済学が構築されていくと予想されます。
物質的な所有欲から無縁な世代が現れるまで、あと100年か200年かかるでしょうし、一直線の単純なプロセスではなく、紆余曲折ありながら進んでいくのでしょう。それでも「人類がいよいよ、新しい段階に足を踏み入れた」ということが重要なんです。
これからの働き方と日本社会の関係については「資本主義の終焉」という結論だけ言うと一気に飛躍しますので、そこに至る紆余曲折、途中経過の部分についてもお話ししましょう。
私は、将来的に日本の人口が7,000万人くらいで落ち着くと思いますし、それを前提に準備を進めるべきだと思っています。でも、これは日本人のよくない面なのですが、ほとんど誰もバックキャスト(backcast、避け難い未来像から逆算して現在の行動を決めること)をしない。みんなフォーキャスト(forecast、過去と現在の実績に基づいて未来を予測すること)ばかりしているんですよ。バックキャストを受け入れる雰囲気が、国民の間で希薄なんです。いまだに「(GDPで)中国に追い抜かれた、勝たなければいけない」と考えている人や雰囲気がある。10倍の人数がいるところに、どうやって量で勝つと言うんでしょうか。
「消滅可能性都市」で話題になった、前岩手県知事の増田寛也さんとも何度かお話ししたのですが、あのトピックが衝撃的だったのは「将来、相当数の市町村から人がいなくなるとしたら、今どうするか」というバックキャストを人々に迫る形だったからです。ところが、そうしたときにも「地方を存続させるために、どうすればよいか」と考え始める人が多い。
でもそれは違うんです。当分の間、日本の人口が減り続けることは確定していますから「人口をある程度、場所的に集中させないことには生活インフラのサービスが提供できない」という風に考えるべきなんです。今後は水道を維持するための住民負担より、ペットボトルで水を配るほうが安くなる地域だって出てきますよ。そこでユニバーサルサービスを無理に維持しようと、補助金なんかにお金を使っちゃダメなんです。
目の前・足元の問題に対応するのがもちろん最優先ですが、その先も考えなくてはならない。例えば「2100年の日本」がどうなっているのか。そして、もしそうだとすると、今からどういうことを始めていないとダメかということですね。
人口減少については悲観論が多いけれども、国民1人当たりの生産性ということなら、同じアウトプットが得られる限りは母数が少ないほうが有利ですから「7,000万人でも多すぎる」という結論でもいいんです。それくらいラジカルな議論を、特に若い方から始めていただきたい。
さらに言えば、先進国で少子高齢化が問題となっている一方、サハラ砂漠以南では、これから10億人ぐらいの人口が登場します。その方々はどうするかとか、地球規模でものを考えたほうがもっといいですね。ただ一方で、私たちはそれぞれ自分自身が生き抜かなければなりません。ですから出発点は「利己主義」でよいと思います。
まず自分の家族の生活は、なんとか自分で守る。家族が生き抜き、自分の会社が生き抜き、さらに業界が・国が生き抜く。自分を中心に、少しずつ周囲に向かっていく同心円上で発想していけばよいのではないでしょうか。
RPABANKの記事より
SBペイメントサービス株式会社
代表取締役副社長 兼COO 兼CISO 堀田智宣氏
「2-6-2の法則」と言われても聞いたことがない、
と回答する方が多いかもしれない。
別名、「働きアリの法則」とも呼ばれるもので、
進化生物学を専門とする北海道大学の長谷川英祐氏が、
働きアリの研究をするなかで見出した法則である。
働きアリの集団の構成のなかで、
「実績・生産性が高く積極性に優れたグループが2割」
「上位にも下位にも属さない平均的なグループが6割」
「実績・生産性が低く積極的に行動しないグループが2割」
と、自然に2対6対2の割合になるという法則のことである。
この法則はビジネスシーンでも用いられ、
「組織は優秀な2割の人材で動かされている」
という意味合いで論じられることもある。
堀田氏は講演の最後に、RPAを導入する最大のメリットを
「組織の活性化と組織文化を変えることができることだ」
と説いた。
「ビジネスでも用いられる法則に
『2-6-2の法則』というものがあります。
この法則に基づいて、『企業は優秀な2割の人で回っている』と言われますが、私はそれは間違いだと思います。
人材全体の割合が「優秀」「平均」「消極的」と三分されるのではなく、どの人にも優秀なところが2割あり、普通の領域が6割、ダメな部分が2割あるものです。
大事なのは、その人が持つ"優秀な2割"の割合を広げていくことです。RPAは、人が持つ"6割の普通"の領域を
もっと楽しいものに変えていく可能性があります。
そうすれば、必然的に"優秀な2割"の割合も広がっていく
ことでしょう。」
「6割の普通を楽しくする」は的を射た表現かもしれません。
優秀な2割を拡げるのにRPAは直接的には作用できないですけど
ベースをラクに楽しくすることで支援できるかもしれません。
2019年1月のおしごとEUREKA!
映画『恋妻家 宮本』
「正しいけど優しくない」と
「正しくないかもしれないけど優しい」があるとき
「正しくないかもしれないけど優しい」ことをしてみる。
そういうシーンがあります。
あぁ、そうなんです。
「正しいことが優しくない」ということは結構あります。
「正しいこと」のうち、社会が決めたものは「法」
そうではないものを「理」と呼ぶのだと思います。
どちらも、大切なものなんですよね。
「理」というのは、「そうですよね」という共感のことで
人と人が同じ方向に向かうときに欠かせません。
ですが「法」にしても「理」にしても、
誰かが誰かに強いるもので、優しくないときがあります。
先輩が後輩を叱りつけているとき、
「私のほうが正しいよね」と「理」を押しつけています。
「ここは力づくでも言うことをきかせたい」というとき
「理」をとうとうと説いて、相手を縛ります。
「優しい」を優先しなくてもいいです。
「正しい」を優先すればいいんだけど、
その時に「理」をどれだけ「優しく」適用できるか
そんなことを気にする人になって欲しいから優理くんです。
映画『世界から猫が消えたなら』
「優しい」を追い求めすぎて
もはや、何がなんだかよくわからなくなっちゃった
そんな印象です。
「優しい」のてんこ盛りは
「食べた!」って言う気にはなるかもしれないですけど
消化に悪いです。
佐藤健くん、大変だったね、これは。
私は 死ぬことについて頻繁に考えます。
というか、いつもずっと考えてます。考えますよね?
だから、この映画のおはなしには違和感がありました。
もしも いま死を受け入れなければいけなくなったら
「自分が死んだあとに迷惑がかからないようにする」ことと
「現世をしっかり味わう」こと
そのふたつのことをどこまでできるか、両立できるか、
ということに もっと頭と身体と心を使うと思います。
私の勤める会社がSPECIAL THANKSに出てきました。
アルゼンチンロケに協力したのかな。
それはよかった、よかった。
その時が来たときに慌てないように、
この地球のいろんなところを見ておきたいです。
2018年12月のおしごとEUREKA!
わたしの現在の仕事
わたしの仕事は「RPA」と呼ばれます。
Robotic Process Automationの略です。
社員がPCを使っておこなう業務のうち、
繰り返しおこなう比較的単純なものを
ロボットプログラムに代行させます。
そのロボットプログラムをつくっています。
開発ツールを用いるので、
ロボットプログラムをつくることは実は簡単です。
要は「(開発ツールを使いこなす)慣れ」です。
それでも、ロボットがうまく動いてくれると、
ガッツポーズをつくりたくなるほどうれしいです。
だから、この仕事は課程がたのしいです。
ですけど、この仕事の本当のたのしさは
もう少し別のところにあります。
人が生きていて、もっともしあわせな時は、
たぶん、誰かに深く感謝しているとき。
だけど それはなかなかコントロールできないもの。
その次にしあわせな時が
「なんかやれる気がしてきた」という瞬間。
こっちは「つくれるもの」だと思います。
コンピュータには
「やれる気がしない」を「やれる気がする」に変える
という力があります。
その代表選手が AdobeのPhotoshop とMicrosoftのExcel。
Photoshopは 写真を重ねてレイヤー効果を加えるだけで
かっこいい絵を描くことができます。
美術の成績が悪かったり、イラストがうまく描けない人は、
本当は かわいいものや かっこいいものが好きなのに
自分で絵を描くことを諦めます。
だけど、Photoshopを手にすると、
ふたたび描くことをたのしめるようになります。
Excelは 気の遠くなるような計算を一瞬でやってくれます。
算盤や電卓だったら何時間もかかるうえに、
その計算結果が合っているという確信がなくて気持ち悪い。
Excelはそんな憂鬱から私達を救い出してくれました。
たくさんの数値を目にしても、もう怖じ気づくことはなく
「正確に計算できる」という気にしてくれます。
Photoshopや Excelがそうであったように、
RPAも 憂鬱で悲しげな顔を明るい笑顔にする力があります。
オフィスワークには単純な作業があふれています。
ただただひたすらコピー&ペーストを繰り返しおこなったり
内容に間違いがないか、目を皿のようにしてチェックする
そういうのは、人間には苦痛です。
逆にコンピュータにとっては得意分野です。
そんな業務をなぜ人間がやっているのか? といえば、
「判断を伴うから」です。
常に同じことをすればいいのではなく、
ケースに応じてやり方を少し変える必要があります。
その判断ができるようになることが 社員としての成長
と考えられたりもします。
ですが、その判断には一定のルールがあって、
そのルールに沿った判断と処理を何回も繰り返すことで
身についてきただけのこと。
ルールが変われば、その人の成長はリセットされます。
判断のしかたと ケースごとの処理のしかたを
ロボットプログラムに教えれば 代行させることができます。
自分の仕事をロボットプログラムに明け渡すとき、
自分の存在意義とは何か、と思い悩むかもしれません。
だけど、実際には よろこんで明け渡すことが多いのです。
なぜなら、やりたくてやっていた仕事ではなく、
誰かがやらなければいけないことを
自分が犠牲になってやっていただけのことだからです。
社員を苦しいだけの業務から解放できるRPAは
やりがいのある仕事です。
だけど RPAには限界があります。その限界とは
「本当の意味での『やれる気』はつくれない」ということ。
気が進まない仕事を やれる気にはしてくれます。
気が進まない仕事を簡単にすませられるようになったあと
その社員は何をするのか?
別の気が進まない仕事をはじめたのでは意味がありません。
本当にやりたい仕事に時間を使うことができるようになって
はじめて「やれる気がしてきた」というしあわせな瞬間を
迎えることができます。
ただし、その場面ではRPAは使えません。
そこで必要になるのは、ルールに沿った判断ではなく、
心からあふれ出す気持ちと頭から湧き出るアイデア。
それはその人でないと生み出せないものです。
音楽は聴く人がいないと成り立ちません。
演奏者がしっかりと演奏することも大切だけど
聴く人達の演奏を愉しむ姿勢とか雰囲気とかも大切。
良いライブは 演奏者と聴き手が一緒につくります。
それは技術やサービスでも同じこと。
技術やサービスを提供する人は
その質を高めることに力をつくさないといけません。
でも同時にそれを受ける側も
ちゃんとその技術やサービスを使わなければいけません。
ロボットプログラムを使ってもらえると
とてもうれしい気持ちになります。
しっかり使ってもらうと、ロボットの機能や使いやすさを
改良する意欲がわいてきます。
そういう良好なスパイラルの関係は RPAでは築きやすい
と思います。
その一方で 私は RPA開発ツールのユーザ でもあります。
RPA開発ツールを提供してくれている人を演奏者とすれば
私は聴き手です。
良いライブをたのしもうとおもえば、
あぐらをかいて反っくり返っているわけにはいきません。
日本の厳しい消費者が 質の高い製品とサービスを生んだ
そんな風に言われることがありますが、ちょっと違う。
「厳しい」「横柄」「よりよい製品にすぐ乗り換える」
そんな消費者がサービスを育てるのではないのです。
良いものを良いと言い、もっと良くなるアイデアがあれば
それをフィードバックする、それがサービスを育てます。
サービスを提供する側と、それを受ける側
双方が対等な立場で、お互いを思いやって感謝しあう
そういうことを大切にしていきたいです。
2018年11月のおしごとEUREKA!
2018年11月16日 本日のダーリン(糸井重里氏)
いま、歩いているあなたの横を、
真っ赤なスポーツカーが通り過ぎたとします。
それが、今日発売されたばかりのクルマだったとしても、
たぶん、クルマに興味のある人以外は、
通ったことさえも気づいてない、見ていないと思います。
相当にうるさいエンジン音を立てていたとか、
真っ赤な色が印象に残ったくらいのことはあっても、
それくらいがせいぜいです。
つまり、ほとんどの人は「なんにも思ってない」。
街頭インタビューで、いろんな質問が投げかけられます。
「トランプ大統領の、この発言をどう思いますか?」
とかね、たとえばですけれどね。
「これからどうなっていくのか、不安です」だとか、
答えている人の映像が放送されたりしますが、
「まだ、ちゃんと考えてない」であるとか、
「なんにも思ってない」人の答えは放送されませんよね。
テレビに出てくるコメンテーターみたいな職業は、
なにかしら思ったり、なにかしら答えたりという、
ひとつの「意見のひな型」を提出するのが仕事ですが、
だれもがそんなふうに、いちいち「なにかを思ってる」
ということはないのではないでしょうか。
いつからか、なんについても「なにかを思ってるはず」
という決めつけが広がり過ぎてるような気がして、
そっちのほうが問題なんじゃないかと「思ってます!」。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまって、ひとりずつの人間がいろいろ背負いすぎだよね。
スタンフォード大学 マインドフルネス教室
スティーヴン・マーフィ重松
スタンフォード大学で私が教える学生のほとんどは、
子どもの頃から自分の意見を大事にせよと教えられてきた
欧米人である。
自分を空にするのは難しいと感じがちだが、
それは、それまでの人生で何にもまして
論理的思考に価値を置くように育てられてきたからだ。
私は知らないこと、あいまいなこと、不確実なこと、
複雑なこと、不可解なことがあっても気楽な気持ちでいて、
知識を深めてくれる驚きや畏敬を養うことを奨励している。
すべてのことにたいして意見を持たなくても、
不屈で無感情な様子を気取らなくても良い。
代わりに、自分の感情に触れ、
ほどよく心を開かせることだ。
弱さのように見えるものにこそ
実は自分の強さが宿っている。
そして、強さと見えるものが弱さ、
つまり恐れを隠そうとする試みである場合が多い。
自分の弱さを知るような出来事を経験すると、
学生たちは有能でなければならないという
重い気持ちではなく、禅で言う「初心」の軽さを持って
授業に参加できるようになる。
自分を抑えながら優秀さをアピールし、
これまでと同じやり方でうまくやってみせねばという思いを
手放すことができるからだ。
ゆうりくんが大好きになってしまった クレヨンしんちゃん。
しんちゃんの家の床の間には「色即是空」の掛け軸が。
スティーブン・マーフィ重松氏や 禅の思想を説く人が
「空になれ」みたいなことを言いますが、空って?
空って、空っぽってこと? それっていいことなのかな。
中学校の修学旅行で行った京都のお寺で、お坊さんから説教をいただきました。その時のことを今でも覚えています。
仏教には色即是空という言葉があります。
色とは欲や下心。そういうものは空しい、という教えです。
でも君達のような若い人達に「欲を持つな」とは言わない。
競争で勝ちたい、100点を取りたい、もてたい、
そんな欲を持っていいです。
では、色即是空という言葉は嘘か、意味がないのか、
というと そうではないのです。
「空」を「むなしい」と読まずに 「そら」と読めばいい。
みなさんの心は、空の色のようでありなさい。
朝には漆黒から赤みがさし、昼には真っ青になる、
夕方には燃えるような赤になり、夜には星が輝く。
晴れの日もあれば雨の日もある。
空はいつも広く、いつもうつくしくうつろう。
そのときを大切に思い、自分の心の動きをみつめなさい。
ひとつ色の色眼鏡を捨てて、自由に生きなさい。
「ほんとにやろうとはしてないこと」とがあります。
おなじく、「ほんとにやろうとしている人」と、
「ほんとにやろうとはしてない人」がいます。
「ほんとにやろうとはしてないこと」のほうが
派手で、見栄えがよかったり、人びとにウケたりします。
「ほんとにやろうとはしてない人」のほうが、
「ほんとにやること」というのは、
ときに妥協が必要だったり、曲がりくねったり、
むだなことのようにさえ思えたりするものなので、
やり続けるのに勇気みたいなものが必要になります。
また、「ほんとにやろうとしていること」には、
できないかもしれないという疑いとの戦いもあります。
「ほんとにやろうとしていること」をやっている人と、
「ほんとにやろうとはしてない人」は、
あんがい見分けがつくような気がしています。
ぼく自身が、「ほんとにやろうとしていたこと」と、
「ほんとうにはやろうとしてなかったこと」の両方を、
恥ずかしながら経験しているせいもあります。
やっぱり「ほんとうにやろうとはしてなかった」と
「ほんとにやろうとしていること」を抱えている人は、
理解されるための表現を、やや抑えています。
あとで「がっかりした」と言いそうな人まで巻き込むと、
お互いのためにもよくないから、だろうと思っています。
逆に「ほんとにやろうとしてない人」は、よく語ります、
よく叫びます、よく表現します、よく誘います。
ネパールのライ君のやっていることだとか、
幡野広志さんの行動だとか、熱はあるけれど静かです。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほんとにやった」を貯めていくと信用を少しもらえます。
今日も糸井氏、攻めてます(責めてます)。
ほんとにやろうとしている人はその熱が理解されにくい
ほんとにやろうとはしていないのに 威勢だけいい奴多い
その後者のことを責めてます。
おなじように感じることは私にも結構あるので、
「そうだ、そのとおりだ!」と言いたいところですが、
ほんとうのところは「よくわからない」です。
何かお題があるとき、私はクヨクヨと心配するほうです。
コレ、本当にやるんだったら、
この課題を乗り越えなければいけませんよね。
簡単には乗り越えられない課題だと思います。
ここに気をつけないと。ここをこう変えないと。
このひとたちから本気の協力をとりつけないと。
みんながこういう気持ちにならないと。
そういう心配をまったく見えないかのように、
「いいからやろうぜ」と言われると、
「あんた、ほんとにやりきろうとしてるか?」
「あとでへこたれないか?」と疑いたくなります。
でも「じゃあおまえはやるき満々なのか?」と聞かれたら
それはわからない。
どこか他人事だから、うまくいかない理由がよく見える
のかもしれません。
だれもが、やれるかどうかわからない
ギリギリのところでがんばるのであって、
「ほんとにやろうとしてたか?」なんて、じつは
そんなの他人にも自分にもわからない。
「ほんとにやろうとしているか」と
声の大きさ、大胆さのあいだにはあんまり関係がない、
性格の違い だと思ったほうがよさそうです。
糸井さんが言うようには見分けはつかない、と思います。
静かに熱をもった人がすごいことをやってのける
そのことは 私も「そうだな」と思います。
ネットで「ほんとはどうでもいいこと」を叩く人達から
糸井さんの心がはやく自由になればいいのに。
2018年8月のおしごとEUREKA!
この絵を知っている人はいますか?
聴講者)「巨人の肩の上に立つ」ですか?
そうです。ありがとうございます。
これは、万有引力を発見したアイザック・ニュートンが
知人から「なぜ、すばらしい発見をできたのですか?」
と聞かれて答えた比喩表現で、
「先人が積み重ねてきた知見の基に新しい発見をしたのだ」という意味です。
巨人の肩というのは決して個人の肩ではないんです。
社会や組織、集団の肩でもあるんですね。
優秀な会社とそうでない会社があったとすると、
それは個人の知恵や能力だけでは決まらないと思います。
頭のいい大学出身者だけを集めていれば、
優秀な会社になるわけではありません。
そこで大事なのは「集団としての賢さ」です。
お互いの間で学び、盗み、学んだことに対して
「ありがとう」と伝えて、その組織に貢献しようとする。
個々がしっかり育っていくことも大事なのですが、
集団の中で学び合い、社会に対して貢献するほうが
これからは大事だと思います。
しかもひとりずつが
少しずつ方向性が異なることをやっていて、
互いに学び合い、感謝し合う関係がある。
どんどん上に立ってのし上がっていくのではなく、
お互いに感謝し合うんです。
どのくらいすばらしい方だったかを肩書で語られても、
それはその人の価値になるとは思えなくて。
それよりも、
「この人にこれだけ親切にされた」とか
「一緒に遊んでいて楽しかった」とか
「お父さん、死んじゃ嫌だ」と泣かれたりとか。
肩書のないひとりの人間として語られることが、
その人自身の価値だと僕は思うんですね。
他人と比べて競争することもなくなるし、
誰かによろこんでもらうことを
はじめに考えられるようになるんです。
僕らはどこかで
「どうでもいい早さ」にとらわれていますよね。
数日後には変わってしまう情報を知っていることなんて、
自慢でもなんでもないんです。
新しいことを追いかけていたほうが需要がある
と思われがちなんだけど、
なるべくいつ見てもおもしろいもの、
古くならないものをつくろうと思っていました。
若い人たちはとくに
「俺のほうがすごいでしょ競争」をしがちだと思います。
でもそれは辛いから、早く逃げたほうがいいです。
逃げ道はあって、
「自分のため」に仕事をするのではなく、
「力を必要としてくれる誰かのため」に仕事をすると
心持ちが変わると思います。
聴講者)自分のためと他人のため、
その関係性をどうあつかえばいいのか?
漠然とした質問なのですが、どうお考えでしょうか。
カギになるのは「時間軸」だと思います。
若いときに「誰かのために力を発揮しよう」と考えることは正直言って、むずかしいと思います。
人生の中で決断する、ということは
どの年齢でなにを考えるのか、
時間軸とともに見極めることが重要です。
アマチュアの心ではじめて、プロの仕事として仕上げる。
それらをたのしそうにやる。
そうやって力いっぱい仕事と向き合うことで、
どこかで突き抜けられます。
そして、いつの日か、誰かのために力を発揮する瞬間がくるかもしれません。
手編みのセーターには機械に負けない理由があって、
それは「命が使われた時間」だと思うんですね。
僕は、
労働とは売り買いするものではなくて、命のやりとりなんだ
と思うようになりました。
贅沢さよりも、真心が込もっていること
が価値になるんです。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン 2018年8月2日(木)
「いつも考えている」という言い方があります。
なにかの答えみたいなものだとかヒントを見つけたとき、
「どうして見つかったんですか?」と聞かれたら、
「それについて、いつも考えてきたんだよ」と言います。
ほんとに、そうなんです。
アイディアが空から降ってくるように言う人もいるけど、
降ってくる前に、さんざん探してるんですよね。
で、「いつも考えている」というのは、どういうことか?
これについて、横尾忠則さんが話してくれました。
「いつも考えてるといっても、時間じゃないんだよ」と。
何時間もじっとそのことを考えてるようなものじゃない。
どれくらい考えてきたかという「時間」じゃなくて、
「回数のほうが大事なんだよ」と教わったのでした。
ぼくは、その考えの深いところがわからないままに、
「そうですか、時間より回数ですか」と思いました。
しかし、いまごろになって、わかったのです。
ほんとに、何時間考えたかよりも、
何度考えたかという回数こそが大事なのです。
それは、恋愛のことなんかで説明もできそうです。
「あなたのことを、今日も5時間思った」ということと、
「あなたのことを、いつも何度も思い出してる」では、
どっちが「あなた」のあなたを打つでしょうか。
だいたい「5時間思う」ってどういうことなのかちらね。
仕事のアイディアにしても、同じようなことじゃないか。
「この課題をどうしたらいいのか?」
「これはなにを意味しているのか?」なんてことを、
しょっちゅう考えているから、答えにたどり着くんです。
もちろん、ぼく自身のことについても思い当たります。
小学生のときから考え続けているような問いもあります。
何年も考えていて、わかりそうでわかってないことも、
なにかが刺激になって何日か考えていることも‥‥。
気になること興味のあることについては、
何度も何度も、考えては止めてをくりかえしてる。
そういうことを「いつも考えている」と言うのでしょう。
「ほぼ日」をどうやっていこうかなんてことについちゃ、
これはもう、どれだけ考えてきたことか‥‥!
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
苦手よりも得意なことのほうが、考える回数も多いかな〜。
はい、おっしゃっていること、わかります。
でも 家族の場合は、「回数より時間」かもしれないです。
何もなくても 一緒に過ごす時間の積み重ねです。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン 2018年8月3日(金)
毎年、暑い夏になると、同じようなことを思います。
特に、カレンダーが8月になると思います。
亡くなった人たちのことや、死ぬということについて。
これには、歴史が教えてくれることや、
伝統や風習が生きていることが大きく関係しています。
8月には、この世にいない知らない人のことを祈ります。
もちろん、知っている人のことは、よく思い出します。
高校野球の放送が聞こえてきたりすると、
条件反射のように、亡くなった人や死ぬことを思う。
眩い青春や情熱の象徴であるかのようなあの大会が、
熱い地面に落とす黒い影は、死であるようにも思います。
ぼくは、なにも不吉なことを言いたいのではなく、
日本の真夏がこういうふうであってよかったなぁと、
しみじみ感じているのです。
戦争と、お盆と、高校野球と、夏休みは、
毎年、同じように強い日差しのなかに描かれています。
明るく熱いものと、そうでないものが、
いっしょに感じられる季節というのは、
とてもいいことなのではないでしょうか。
じぶんの年齢が増して、上手になったことに、
「亡くなった人と話せる」があります。
話せるようになるんです、その、別に、
超常現象というようなことじゃなくね。
この世のことばを話す人じゃないのに、
ちゃんと話し相手になってくれるのです。
うれしいしたのしい時間です、そして緊張感もあります。
死んだ人は死んだあとも静かに生きてますよ。
ほんとはお墓や仏壇でなくても、デスクでもソファでも、
話そうと願えば、かならずやってきてくれます。
報告をしたりね、むだなことだとかも話したりね、
日記をつけることなんかにも似てるかもしれない。
今年は、いつものともだちばかりじゃなくて、
犬のブイヨンとも、よく話してます。
もともと無口なやつだったのですが、目で話します。
あんがいやさしく相手をしてくれるものなんです。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
へんなこと書いてると思われたかな。ま、8月だ、許せや。
2018年7月のおしごとEUREKA!
7月も「おしごと」(感銘や影響を受けた記事の転載)はさぼります。
かわりに「私の中で数ヶ月間にわたって 相互につながっているもの」を書きます。
映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』を観ました。
この映画に出会ったのは、ベネディクト・カンバーバッチの大ファンである同僚と、AMAZON Prime Videoのおかげです。
でも、その前に伏線があり、天才数学者:アラン・チューリングの名は、5月のおしごとEUREKA!で取り上げた
『「ヘンタイよいこ」新井紀子は明日への希望を忘れない』の中でも登場していました。
”時に想像し得ない人物が、偉業を成し遂げる” が この映画のひとつのキーワードですが、映画の中では別の言い方
”あなたが普通じゃないから、世界は こんなにすばらしい” とも表現されています。こちらの表現の方が好きです。
そして、アラン・チューリングが偉業を成し遂げる時に支えとなったのは、暗号解読のチームメンバーもそうですけど、
クリストファーというアランの同級生でした。クリストファーがいなければ、アランの人生はもっと別のものでした。
人が生きていくうえで、その人を強く動機づけ、支えてくれる大切な人 がいます。
年収だとか、いくらの売上を直接的につくったか とか、そんなことで その人の価値が語られてしまう傾向があるけど
どれほど強く 誰かを勇気づけ 支えたか、ということが より大切なのだと感じます。
そのあと、アラン・チューリングの反対側の映画『ヒトラー 最後の12日間』も続けて観ました。とても陰惨な映画です。
『社会が滅びゆくときって、嫌な感じになっていくでしょう。普通なら、ここまで下品なことしないよね、みたいなことを
やる人が出てくる。それに対して何も言えない状態が起こると思うんです。』という新井紀子さんの言葉そのものの世界。
敗戦確実の状況下で、事実を正しく受け容れないヒトラーと、罵倒され振り回されながらも依然として忠誠を誓う将校たち。
ヒトラーのいる安全な地下壕と、過酷な戦闘を強いられる外のベルリン市街との間には、あまりにも大きなギャップがあり
情報は遮断されて、12日間の間にも 多くの命が失われました。安全な地下壕の中では多くの命が自ら絶たれました。
ダメだとわかっているのに何も言えない、止められない という状況は、大東亜戦争の日本軍にもあてはまります。
そのことは中央公庫『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』に書かれています。
破綻する組織の特徴は、「トップからの指示があいまい」「大きな声は論理に勝る」「データの解析がおそろしくご都合主義」
「新しいか、よりも 前例があるか、が重要」「大きなプロジェクトほど責任者がいなくなる」であると書かれています。
それは戦争に限った話ではなく、すべての組織にあてはまります。
ですが、「悪いのはトップ/責任者(不在の状況)だ」と言うのは、スーパーマン待望論に過ぎず、スーパーマン待望論こそが
ヒトラーの独裁を支えていたのだろうと思います。映画を通して、ヒトラーはスーパーマンではなく、弱さを持つ一人の男でした。
最終的には破綻したダメな組織であったはずの ドイツ軍でもヨーロッパを制圧したし、日本軍も大きな地域を制圧しました。
良い組織か、ダメな組織か、は紙一重であって、追い風の時のことは関係なく、逆風時にどうあるか、なのでしょうね。
私にも、ダメだとわかっていて どうしようもできない、ということがあります。
なぜどうしようもできないのか、と言えば、関わる人達が置かれている状況は明らかに悪いのに、結果は明白には悪くないから。
「この状態はダメです、いつか破綻します」と説明・証明することができず、「大きな声」の前に なすすべがないのです。
それは、5月のおしごとEUREKA!で取り上げた『ご近所の社長は、やっぱりすごい人だった。』の7日目あたりから語られている
状況に通じているように思います。
2018年現在の代表的変わり者は、アメリカ大統領のトランプ氏です。
めちゃくちゃなことをしよる人 ですが、北朝鮮問題を進展させ、中国を効果的に牽制し、景気を押し上げているのも事実。
日本の一般的な損得感で言えば、日本政府よりもトランプ大統領のほうが働いているように見えます。(政府批判ではない)
そのトランプ氏が、なぜ変人扱いされるのかと言えば、彼の表現、つまり外から見えるものが異様だからでしょうね。
ではトランプ氏の内面というか、トランプ氏は何を見ているのかというと、アメリカ中部なのではないか と思います。
私達が持っているアメリカのイメージは、ニューヨーク(証券市場)とカリフォルニア(の輝かしいIT企業たち)です。
私達はそんな ”先進国アメリカ” が好きで、それらの地域が支持する穏やかな民主党が好きです(よね?)。
だけど、それは追い風の話に過ぎないのかも。良い一面だけを見ていたいだけなのかもしれません。
トランプ氏が見ているのは それらの輝かしい一部のアメリカではなく、うらぶれていく逆風下のアメリカ中部なのでしょう。
9月にデトロイトに行ってきます。デトロイトは財政が破綻し 荒れ果てて治安が悪い、という批評を聞いて、
「大丈夫かな」と心配しています。と同時に「社会が滅びゆく時の嫌な感じ」を実際に見てみたい とも思っています。
2018年6月のおしごとEUREKA!
6月の「おしごと」もすこしおさぼり。ぼくも忙しかったし、教祖 糸井さんも愛犬 "ブイヨン"を無くして凹んでいたので。
UN高も新講義は1つだけでした。
今日のダーリン 2018年6月1日(金)
「いやぁ、いろんなものができてきますねぇ」と、
「アースボール」のミーティングの最中に、
他のチームの仕事を見ながら話していた。
「それはさ、蒔いておいたタネが芽をだしてるんだよ」
そう言ってるぼくも、いろいろ出てるなぁと思ってる。
いま、たくさんのコンテンツがリリースされたり、
スタンバイ中だったりしているのは、
いまごろの発表をめざして、
だいたい1年前くらいに考えたことが多い。
ぼくらが忙しくはたらいていることの原因は、
1年前のぼくらがアイディアを出したからなのである。
ということは、1年前のぼくらの考えたことばかりを、
いまのぼくらがやっていると、
次の1年後のぼくらはなんにもしてないかもしれない!
いや、さすがにそれは冗談だとしても、
来年になって、芽のひとつふたつも見えないことに、
「あ、去年にタネを蒔いてなかったんだ」
と気付かされることになるはずだ。
ただただ、目の前の仕事を脇目もふらずにやっていると、
未来のじぶんたちをがっかりさせることになる。
そんなことはない、それは大事なことだ。
ただ、それはまじめ過ぎると思うのです。
あえて教育的に言うならば、「飽きろよ」ということだ。
あとはやればいい、というだけの仕事をしていたら、
感じたり考えたりする能力をもてあますはずだ。
他のなにかを考えたくなる、と思うのである。
そんなことでは「目の前の仕事がいいかげんになる」?
むろん、それはそれで困るのだけれど、
すこし「飽きる」ほうが自然だと思うのだ。
「もっと、こんなふうにできないものか」とか、
「それはそうと、こんなことをしてみたい」とか、
余計なことを感じたり思ったりしはじめて、やがて、
その余計なことを考え出す。
おかげで、飽きていたことも忘れてたのしくなってくる。
ここに未来の実りのためのタネ蒔きがはじまるのである。
もうじき「ほぼ日」創刊20周年、タネ、蒔いてるかい?
今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
すべての時間は、すべて途中で、すべて繋がっているよね。
2018年5月のおしごとEUREKA!
https://www.1101.com/taizoson/index.html
[1]ふたりをつなげるもの。
40歳を過ぎていくと、
それまで、いくら抽象的なことをやっていても、
いろいろなかたちで、現実の社会に興味を持ちはじめる
と思うんです。
[2]起業したきっかけ。
兄(孫正義氏)に対して
「どうしてもわからんな」と思う部分があるわけです。
どこかというと「ビジネスはゲームだ」
というような考え方のところで。
非常におもしろい言い方ですけど、
「これを使って、未来のニュートンの前でリンゴを
落とすんだ」
って彼(米ヤフーの共同創業者 ジェリー・ヤン)は
言ってたんです。
[3]23歳、会社をつくる。
そこまでで相手の社長さんが
「おもしろいな」と思ってくださって
「何だい? 3個目は何だい?」って聞かれまして。
「それはですね‥‥あの、
私とか、一緒にやる仲間が、一生感謝します!」と。
[4]ゲームと音楽が好きだった。
そうですね。好きなことにはやっぱり一生懸命です。
だけど嫌いなことはやりたくなかったんですよ。
[5]孫さんの2浪時代。
「受験に成功する・しない」は
コントロール不可能じゃないですか。
でも「自分が努力するかどうか」は
自分でコントロールできる。
だから「これだけやる」とやることを決めて、
ひたすら集中してそれをやれ、という。
ものすごくプラクティカルなんです。
とにかく、言うだけでは意味がない。
やってなんぼという感じがあるんですね。
[6]いまの時代のロック。
「俺が高校生や大学生のときにさ、
ストーンズやらビートルズやらキンクスやら、
もうバンバン、バンドが出てきてね。
それはもう、すごかったっちゃ。
アンプにガチンと差してガーンと鳴らせば
世界が変わる感覚があったとよ」って。
「でね、インターネットがいまのロックばい。
俺はね、あんたたちがうらやましか。
俺が君たちくらいの年代の若者やったら、
もう絶対インターネットにのめりこんどうよ。
ロックやっとらんばい」みたいな。
[7]予備校の方法じゃなく。
みんなが「自分に欠けはないか」みたいに、
お互いにどちらが完璧かということの
チェックをしあってるんです。
それ、まずいですよね。
大会とかでも、そういう人たちは
やっぱり優勝しないですよ。
そのとき優勝するのは、全然違う
「自分は今日こう思ったのでこうしました」
という、その上を行くやつなんです。
[8]MBA野郎だった。
最近は時代が変わってきたので
「これまでの定石は害である」
という場面がすごく多いように感じています。
それって「定石じゃないほうがおもしろそうだから、
そっちを選ぶ」というよりも、
はっきりと定石にマイナスが多いというか。
たとえば事業計画とか、マイルストーン(中間目標)を
立てるとかって 科学的なアプローチだと思うんですけど、
僕は「事業計画は本当によくない」と思っているんです。
だからいま、少なくとも僕が関わっている事業や
スタートアップに関しては
「事業計画を作ったらぶっ殺す」と言っています。
[9]やめた、もう全部やめた。
「いや、この先に絶対何かある。絶対ある。
だから俺は全部苦難を引き受けるんだ」
とか思い込んで、
MBA野郎として推進しまくってですね。
なにもかも全部やるって言って。
枠を作るためにやってきたことが自分に
「もっと強固な枠を作れ」と要求するようになって。
それで「自分が我慢すればいいんだ」と思ったことが、
他人の我慢も強要せざるを得なくなって。
それで、その他人の我慢が、
また見ず知らずの人の我慢を要求するようになって。
で、その我慢の先にユートピアがあるっていうお題を
こう絶えず唱えなければならなくなって‥‥という、
その循環ですよね
[10]詩人と科学者の共存。
「科学と詩が自分の中に共存する状態」というのは、
これからみんながそっちのほうにこう、
ゆるゆると戻っていくのかなぁ、と思うんです。
[11]会社から共同体へ。
「問題」というのは「問題だよね」って言って
不平不満を言ったり、指摘してるだけの状態。
それを「じゃあこうしよう」「なら俺はこうする」と、
解決に向かってコミットしていったときに、
それは「課題」になるんだという。
互いが「何をしてきた人か」ということで、
信頼があるということですよね。
で、自分自身についても「自分は信頼に足る人であるか?」
っていう問いかけがあるわけですよね。
[12]質疑応答/『後世への最大遺物』
「君たちが後世に残せる最大の遺物、
これこそ万人ができる最大の遺物だ。
それは ──自分の生き方である」って言うわけですね。
https://www.1101.com/torobo_talk_arai/index.html
[5]お母さんの数学教室と中高生の砂漠
新井)お母さんたちのパワーがすごかったんです。
「ウミヘビ料理食べて思いついた」
みたいな話が、ガンガン来る。
それに比べると中高生が‥‥。
糸井)子どもはね、保守的なんですよ、だいたい。
子どもが自由な発想をするっていうときの
「子ども」は、だいたい借りてきたものなんですよ。
〝決着した人〟じゃないと遊びはできないんですよ。
新井)そうですね。
子どもってリアリティがないから、
問題解決ができないんだなって思いました。
体験とか、駆け引きとか、
本物のリアリティが欠けてる。
逆に、お母さんは子どもに
食べさせなきゃいけないとか、
リアリティがある中で問題解決をしているんです。
お母さんのほうが独創的。独自で問題解決してるから。
プリンストンの高等研究所に滞在していたとき、
同僚だった数学者が出題してくれる。
すると、その恐ろしい問題を解くんです、
日本のお母さんが。
プリンストンとお母さんは地続きだと思ったんです。
糸井)その時々の最適解を早く見つけようとする人は、
有り物の引き出しから持ってくるから、
思いがけないことがないんですよね。
新井)だから私はずーっと違和感があったんです。
「子どもは創造性がある」とか、
「いくらでも伸ばすことができる」っていうのにも
疑問があったし、
AI技術が数学とは別のところで
「あれができる」とか「これができる」とか
議論されることにも違和感があったんです。
[7]社会が滅びるときの怖さ
新井)社会が滅びゆくときって、
嫌な感じになっていくでしょう。
普通なら、ここまで下品なことしないよね、
みたいなことをやる人が出てくる。
それに対して何も言えない状態が起こると思うんです。
たとえば古代ギリシャとかローマ帝国や清の最後とか、
きっとそんな風だったんだろうって思うわけ。
昨日まで絶対あり得なかったことが、
今日は〝あり〟になっちゃうような、
そういう〝コモンセンスがなくなった社会〟が怖い。
だから、何かできないかって考えました。
もう一つは、
従来の資本主義経済の「一物一価」みたいなものに
収斂してしまわないような、〝逃げ方〟みたいなもの。
それを、なるべくたくさん用意したいと考えたことです。
効率だけを優先して、大量につくられたものが、
どんどん安く売られるような社会だと、
人は機械に置き換えられてしまうだけになる。
そうではなくて、人が知恵を働かせて、
人でなくてはつくれないもの、
できないサービスを提供して対価を得て、幸せに暮らす。
そんな方向に進みたいと思うのです。
糸井さんの「ほぼ日」の商い、
他のどこにもないものをつくって、
自分で価格を決めて売るようなことが、
良い例だと思うんです。
そして、AIに使われるのではなくて、
人が人として働いていける社会をつくろうというときに、
みんなが話し合うための言葉をきちんと持って、
民主主義が成り立つ国にしたいと思ったんです。
[8]先生たちの能力を信じたい
新井)いまのところわかっているのは、
「こうやって、こうやって、こうやるんです」
みたいな方法論ではないんです。
言語化できるような、
パワーポイントで表現できるような方法ではなくて、
ある子がこれぐらい読めないっていうのを
人として先生が認識して、
なんとかしてあげなきゃって思うことから始まる。
まだそのくらいしかわかっていないんです。
しかも、「それは誰にでも効くのか」っていうと、
そうではなくて、ケースバイケースなんです。
それがまさに人間力なんだと思うんですけど、
本にすると「処方箋がない」と言われちゃうんです。
これって本当に文脈依存なんですよ。
文脈依存であるからこそのリアリティなんです。
文脈依存じゃないような方法論には、
やっぱり限界があるんです。
『UN高』4時限目の講義
「なんかしらの役に立つ確率が日本で唯一4%を超えている授業」
株式会社バーグハンバーグバーグ シモダテツヤ氏
「こんなうんこを出してください」と言われることがありますが、断っています。
・お堅い企業のお堅いうんこ ・炎上にビビってるうんこ ・コンプラ(イアンス)で固められたうんこ
『コンプラも自分で勝手に、忖度みたいな感じで、”やめとこか” みたいの多いですよね』
糸井氏曰く
「疑いの目っていうのはあるものですよね。5%はかならずあります。
その5%のほうが目立つんですよね、ついつい気になってしまう。
ですから、うなづいてくれている95%の人々のことを忘れないよう、ぼくは気をつけるようにしているんです。」
古川健介氏曰く
「都市には固有のメッセージがあります。シリコンバレーは『世界を変える』、ニューヨークなら『お金を稼げ』。
では東京はと考えると、『遊び半分』かな。
日本では8割真面目にしていても、2割ふざけるとかなり怒られてしまいます。
でも、5割を超えてふざけてしまうと、賞賛されるところがある。」
真のイノベーションを起こすために「デザイン思考」を超えるデザイン思考
Design Thinking Driven by Frameworks
ビジネスデザイナー 濱口秀司
- DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文 -
Design Thinking Driven by Frameworks
ビジネスデザイナー 濱口秀司
- DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文 -
2018年2月のおしごとEUREKA!のほぼ日の記事の濱口秀司氏の著書はないのかな?とAMAZONのKINDLEで検索したら
あった
!しかもハーバード・ビジネス・レビューの論文。
あ・・・この特集あった、思い出した。当時「言っていることがまったくわからん」と理解を放棄した論文。
だけど、ほぼ日のインタビューを読んだあとに読み返せば「あぁっ!」となります。すごいな、ほぼ日は!
面白法人カヤックのUN高で出てきた「ブレストではアイデアをたくさん出す」がここでも語られていますが、
そのあとが少し違うのかな。面白さを追求するカヤックと、イノベーションを追究する濱口さん。
ユーザー中心デザイン(user centered design)や
ラピッドプロトタイピング(rapid prototyping)
といったさまざまな方法論を学ぶこと自体は
有意義であっても、結果としてイノベーションが
生まれていないケースが多い。
一般的にいわれている「デザイン思考」という
ものが、本来はイノベーションを生むための
ものでは「ない」からである。
ユーザー中心に考えるプロトコル
- Design Thinking driven by needs -
①ニーズの本質をつかむ
・エスノグラフィックサーチに代表される行動観察調査
・ユーザーと同じ場所で同一体験をするリブ・ザ・ライフ
②アイデアをたくさん出す
・ブレインストーミング
・プロトタイプをつくる
③アイデアを絞り込む
・ビジュアル化
・顧客体験分析
・ユーザーテスト
ニースの本質からアイデアを生む一般的な
「デザイン思考」のプロトコルを、
すでに存在する製品・サービスの改善・改良の
手段としてとらえると、十分に力を発揮する。
世の中には、エンジニアや企画者が
ユーザーのことを考えないままつくりこんだ
製品・サービスがあふれている。
その意味では、それを改善するだけでも、
いまなお多くの需要を満たすことができる。
ただし、それはイノベーションとは別物。
イノベーションの3要件
1)見たこと・聞いたことがない
2)実行可能である
3)議論を生む(賛成/反対)
イノベーションを支える3領域
1)ビジネスモデル(Business Model)
2)技術(Technology)
3)顧客体験(Customer Experience)
イノベーションを生み出すプロトコル
- Design Thinking driven by frameworks -
業界のプロの企画者たちが陥るバイアス
(先入観)を探すためのフレームワーク作成
が肝心となる。
前述のユーザー中心に考えるプロトコルの
①②③の正反対をたどればよい。
①バイアスを破壊するアイデアを生む
・ブレストレベル1
直感的にどんどんアイデアを出す
ただしこの時点での多数決投票は無意味
・ブレストレベル2
レベル1のアイデアの中から面白いと思うものを選び、
面白い理由を明確にする。
それを抽象化した軸からさらなるアイデアを生み出す。
・ブレストレベル3
レベル2から出た複数の切り口を組み合わせ構造化する。
ここまでは、プロの企画者自身が、自分や業界のバイアス
を同定する取り組み。バイアス探しである。
・ブレストレベル3+
レベル3の構造化モデルを破壊する。
「aを取ればbを失うし、bを取ればaを失う」トレードオフ
極端にaかbに行く、中庸のcを取るのではなく、
aもbも満たすdこそイノベーティブなアイデアである。
②ニーズを付加する
ニーズは後から付加すればよい。
プロの企画者のバイアスを破壊したうえでうまれた
アイデアであるため、その時点で、人々がイノベーティブ
であると認知することが保証されている。
アイデアが革新的であればあるほど、逆にその使い道は
いくらでも思いつく。
③意思決定をおこなう
・ツール「β100」
完全なる最終商品に見えるプロトタイプをつくり、
その商品が売られるであろう販売状況や購買意思決定の
瞬間を疑似体験してもらい、「本当に購入するかどうか」
を数字として確認する。
・それでも残る不確実性は、科学的かつ論理的に分析する
ディシジョンマネジメントの手法でアセスメントする。
濱口さんの提言【価値の変遷に目を向けよ】
30年前⇒技術によって差別化を図る「機能価値」の時代
20年前⇒格好いい、おしゃれ、自分のライフスタイルにあっているなどの「デザイン価値」
ここ10年は「ストーリー価値」が台頭している。
イノベーティブなアイデアがあり、それをもとに製品・サービスをつくったとしても、
機能、デザイン、ストーリーの3つを認知させなければ、世の中に受け入れられない。
人はまずデザインを認識し、次が機能、最後がストーリーを認識する。
デザインは一目でわかるもの、機能はそのポイントを3つ程度で言えるもの、
ストーリーは誰でも語れるものであることが肝要である。さらにその3つに整合性が必要。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン 2018年4月5日(木)
ぼくは、なにかをことばにすることを仕事にしている。
人はそう思っているようだけれど、
ほんとうのことを言えば、
ぼく自身は半分くらいしかそう思ってない。
ことばにできたような気がするときというのも、
そういう照明の下で、そう見えた写真みたいなもので、
そう表現されたもののほんとの大きさ豊かさのほうが、
ことばで言えてることの何百倍もあるのだ。
ことばにできるというのは、いわば、
ニックネームをつけるくらいのことである。
ゴリラというあだなの人がいたとして、
「なるほどなぁ」といくら人が納得していても、
それはゴリラのように撮れた写真の一枚にしかすぎない。
ゴリラ氏を大好きな人から見た彼のいいところなんかは、
ほとんど見えてないことだろう。
ことばにする前の、ことばになってないなにかを、
どれくらい受け止めているかのほうが、
ほんとうは、ことばにする以上に大事なことなのである。
そういう意味では、ぼくが実際に、
なにかをことばにする仕事をしているとしても、
「さぁ、できた」とことばで表現するその前のところで、
いちばん仕事をしているというわけだ。
どうしても、まだ言いたくなっちゃうのだけれど、
「うちの犬は、いいこ」と、ぼくも含めて、
いろんな人がそう言ってるよね。
そのときに、「どういうところがいいこなのですか?」と
あらためて問うのは、ほんとうは野暮というものなのだ。
ああいうところ、こういうところと説明をはじめたら、
「うちの犬は、いいこ」と言うときの、
まろやかでにこやかで、こころがふるふるするような
あの気持ちよさは消えてしまうのである。
「いいこ」と感じて、そう言っているときの、
「うちの犬とわたしの間」にある「とてもいいもの」は、
すでにそこにあったものなのだから、それでいいのです。
ことばでなんでも言えたような気になるなよ、と。
それを知りながら、ことばを使うんだぜ、と、ね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そう言いながら、ことばを毎日吐き出しているんだけどね。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン 2018年4月4日(水)
おとうさんやおかあさんが、
どういうことを思ったり、考えたりしていたか。
こどもは、じぶんが大人になったときに知りたくなる。
いっしょに過ごした時間が長くても、
たくさんいっしょに話したことがあったとしても、
そこであんまり語られなかった
「おとうさん」や「おかあさん」がいる。
家族としてどんな話をしていたのかとは別に、
おとうさんは他の大人たちとなにを語りあっていたのか。
おかあさんはひとりの時間になにを思っていたのか。
そういうことが知りたくなる。
大人になったこどもは、
あるときに、おとうさんもおかあさんも、
ひとりの人間だったということについて、
いまさらのように気がつくからだ。
おとうさん、おかあさん、と呼んでいた人が、
じぶんのような人間だったとしたら、
どんなふうに生きていたのだろうかと興味を持つ。
こんな機械をつくる仕事をしていたんだよだとか、
こういう人に、こういうサービスをしていたよだとか、
うれしいときにはこんな歌をよく歌っただとか、
隠していた恋心があってねだとか、
こんなことをずうっと気に病んでいたんだよだとか、
全然だめだめなことでもいいし、
けっこうりっぱだったことでもいいし、
弱いところがいっぱいあったという事実でもいい。
そういうおとうさんやおかあさんの
さまざまな足跡を見て、こどもはまた大人になる。
おそらく、ぼくのこどもは、自然と、
ぼくがこうして書いている文章を読むことになる。
直接会ったときには「げんき?」とか言い合うだけでも、
そうじゃないぼくのことを知ることができる。
ずいぶん恥ずかしいことでもあるけれど、いいことだ。
ぼくは、ひとりのこんなふうな人間で、
できることなら、これを読むこどもが、
生きることを好きになるような足跡を残したいと思う。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読まれるかもしれない手帳を、いま記しておきましょうよ。
2018年3月は「おしごと」さぼりました
2018年2月のおしごとEUREKA!
「超」がつくオススメ対談
濱口秀司さんのアイデアのカケラたち
https://www.1101.com/hamaguchihideshi/index.html
TO DO リスト、手順書、スキル、カルチャー。
この4つに分けた「ナレッジの正体」を、
どういう順番で教えるかによって、
全然違う教育方法になるんです。
大きく2つのパターン、
「反時計回り」と「時計回り」があります。
「反時計回り」は左上のTO DO リストからはじまって、
手順書、スキル、カルチャーという順番で教えます。
この順番は、学校など世間一般の教育現場で
用いられています。
この教育方法には、
いいことと悪いことがあるんです。
いいことは、むちゃくちゃ効率的に学べます。
実際に、世界中の学校で使われている。
基本を把握できているから、
ある程度なら新人でも成果を出せるんです。
では、悪いことはなにかというと、
先生の能力を超える可能性が
ものすごく低いです。
99%の確率で超えません。
もうひとつ教育方法は右上のカルチャーから時計回りで、
スキル、手順書、TO DO リストの順番で教えるんです。
これはね、職人の育てられ方、
クラフツマンシップを形成するときに、
用いられる方法です。
この「時計回り」の教育方法にも、
いいことと悪いことがあります。
時計回り教育のいいところは、
先生の能力を超える確率が
ものすごく高いです。
カルチャーを理解しながら
失敗と成功を何度も繰り返すので、
「自分なりの答え」を嫌でも見つけようとします。
模範解答に縛られることがないので、
先生も思いついていない、
新しい答えが見つかる可能性が高いんですね。
悪いことは、超非効率です。
本人も心折れちゃうと思うんですよ。
この説明をすると、賢い人は必ず、
「両方のいいところだけをかいつまんで、
ハイブリッドで指導すればいい」と言います。
そんなのね、絶対うまくいかないです。
大事なことは、丁寧に指導することです。
でも、普通に丁寧に時間をかけて指導とか、
そういうことではないですよ。
まず、部下に恥をかいてもらうことも承知で、
失敗を許すこと。
そして、プロジェクトをどーんとひとつ任せます。
教える時間はとってもかかりますし、
ここぞというときに助け舟を出せるように、
傍でみていなければいけないので、
教える側の負担も大きいです。
でも、それだけじゃ心が折れちゃうかもしれない。
なので、もうひとつ大事なことは「虎の巻」の見せ方です。
僕はすべての答えをみせず、
大事な一部分だけみせるんです。
つながっていなさそうな部分的な2つを、
「実はこういうロジックでつながっているんやで」と
実例を交えて説明するんです。
ただチームを組めばいいものではなくて、
話し合いにも設計が必要だと思います。
どんなチームがいちばん効果的な成果を出すか、
「コラボレーション」の実験をしたことがあるんです。
世界中でいろいろな人に対して
何回か同じ実験をやっていますけど、
いつも、チーム5と6がダントツでいいです。
頭ひとつ抜けます。
チーム1と2と比べると、
チーム3から8は
どれも良いアウトプットになりますが、
中でも5と6が一番です。
会議室の雰囲気は、
ずっと話し合いをしている1と2が、
いちばんコラボレーションしているようにみえます。
ですが、ぺちゃくちゃ喋っているだけでは、
チームの脳みそを充分使い切れていないんです。
この、ひとりで責任を持って
黙々と考え切る時間を持つことで、
「自分の答えはこれだ」と明確になるんですね。
そうして、チームの創造力がパワーアップするんです。
では、シーンとしたチームがいくつもある中で、
どうして5と6が頭ひとつ抜けるのか。
それは、一度チームでアイデアを共有して、
「バイアス」を壊そうとして、
もう一度ひとりで考える時間を持てるからです。
働いていると経験が蓄積されて、
日々のルーティンやルールが出来てきますよね。
これがきたらこうだと、
条件反射的に対応してしまう。
つまり「バイアス」にかかっているんです。
でも、本人たちは中々気づけないんですよ。
でも新しいアイデアを生むためには、
「バイアス」は壊さないといけないんです。
「バイアス」を壊すには、
目新しいアイデアがいちばんです。
必ず最初は「そんなん絶対無理や」と
クライアントから言われます。
そう言われたら、こっちのもんです。
全然違うアイデアのおかげで、
先入観や常識がちょっと崩れるんですよね。
「あれ?そんなのもありかな?」って。
日本の場合は
「問題解決と、社員の教育もしてください。」
と言われることが多いです。
僕が問題解決をする様子を傍でみて、
ノウハウを学んで、成長したいのが日本人。
日本人は小さな仕事でも、
単純作業にはせず、常になにかを体得したいと
思って仕事をするんでしょうね。
日本は「茶道」とか「剣道」とか、
古来からある習い事には
「道」がつくものが多いですよね。
道を極めることがよしとされていて、
仕事も趣味もなんでも「道」にしてしまうのが、
日本人の特徴だと思います。
成功している会社のほとんどは、
「道」を極めた人が必ずいます。
この「道」カルチャーがね、
日本の経済をおもしろくしてきたと思うんです。
Q)答えを思いつくのは、どんなときなんですか?
そうですね‥‥。力を抜いたときですかね。
シャワーを浴びているときとかですね。
あとは車を運転しているとき、
散歩をしているときなど。
意図的に設計しています。
死ぬほど考えて、
「このタイミングで一旦力を抜こう」と
時間を決めた上で、シャワーを浴びるんです。
そうすると、思いつきます。
2018年1月のおしごとEUREKA!
クロネコヤマトの決断 正直に話したい、人を守る働き方 木川 眞×糸井 重里
https://www.1101.com/yamato_ketsudan/index.html
『ちょっと自慢になってしまいますが、
ヤマトの社員がお客様に対する気持ちって、
やはり、ものすごく強いんですよ。
荷物がどんどん増えていくと、
お約束した時間に運べなくなっていくんだけど、
それでも必死になってやっていました。
一所懸命に運んでいるうちに
労働時間が長くなり、残業も増えるばかりです。
結果的に、社員のロイヤリティの高さに乗っかって、
事業を拡大していたということです。
いつのまにか我々は、社員に頼りすぎていたんです。
これ以上しわ寄せをしたら、
社員の犠牲のもとに業務を拡大していく
会社になってしまう。
その恐怖心を感じたのが2016年の末頃です。
社員に嫌われる会社になったら、
わが社はもう伸びることができませんから。』
(木川 眞さん)
『お客様に対して非常に僭越な言い方ではありますが、
適切なサービスとは何かを
我々と一緒に考えていただきたいんです。
そして、サービスはタダではありません。
サービスは受益者が負担するものですから、
サービスレベルに対しての適切な価格で、
わたし達は運ばせていただきますという、
ある意味では当たり前でもある考え方を、
あえてこのタイミングで出させていただきました。』
(木川 眞さん)
『共働きの家庭も多くなって、
通販で買われる荷物も日用品が増えてきました。
どうしてもその荷物を、その日のうちに受け取りたい。
だから早く帰らないといけない。けれど、帰れない。
セールスドライバーは不在なら何度でも
おうかがいして、対面でお渡ししたいのですが、
それが一部のお客様にとっては、
逆にストレスになっていました。
「ありがとう、ヤマトさん!」
と言ってもらえるのを喜びにしていたんですよ。
ところが、
再配達に来たセールスドライバーに対して、
「申し訳ないね」と
謝っていただくようになってしまった。
一部のお客様にとっては受け取れないストレスに、
申し訳ないというストレスまで加わったのですから、
最高のサービスが、必ずしも
最適なサービスではなくなったと思ったんです。』
(木川 眞さん)
『我々が動きはじめてみると、
お客様に聞く耳を持っていただけましたし、
メディアも、驚くほどに好意的だったんですよ。
本当にありがたいことでした。
そして、この流れは、我々の運送業界だけじゃなくて、
サービス業全体に広がってきていますよね。
ここまで広がっていくとは予見していませんでした。
サービス業全体が適正な対価をもらうとか、
労働力不足の解消のために
サービス残業も、24時間営業もやめよう。
こうした働き方に対する世の中の流れが
変わっていくときに、
ヤマトが大きなインパクトを与えてしまったんです。
ぼくらは、土俵際で声を上げたんだと思うんですよ。
もしもこれが数年前に、
「ちょっと利益が落ちたから値段上げよう」
というような話であったら、
たぶんお客様からお叱りを受けたと思うのです。』
(木川 眞さん)
『バーチャルなネット社会になって、
いろんな通信機器もできて便利になりました。
その代わりに、リアルの部分が
あっという間に壊れはじめたんですね。
典型的な話が、
小売店がどんどん潰れていることです。
その流れがあって、
今度は大規模なスーパーマーケットも
非常に厳しくなってきています。
ほとんどの店が成立しなくなったら、
すべての買い物はネットでやればいいじゃないか、
という声が出るけど、本当にそれでいいのかと。』
(木川 眞さん)
『ネットだけになったら、
買い物の楽しみがないんですよね。』
(糸井 重里さん)
『消費者が何もしないほうがいいことなんだ、
という時代が、ずっと続いていますよね。
あなたはおうちにいてスイッチを押すだけ、という。
どんどんあなたの仕事を減らしていく、
これが進化だったんですね。
消費する側の仕事量に一歩あゆみ寄るだけで、
だいぶ変わることがありますよね。
荷物をコンビニに取りに行きましょう、
というのも、同じだと思うんです。
どうしたら、その手間が嬉しいことになるだろう、
というあたりに、ヒントがある気がします。』
(糸井 重里さん)
40歳は、惑う。 AERA×ほぼ日刊イトイ新聞
『ぼくにとって40歳は25年前。
暗いトンネルに入ったみたいで
つらかったのを覚えている。
絶対に戻りたくない、というくらいにね。
そのつらさは、自分がまだ何者でもないことに悩む、
30歳を迎えるときのつらさとは別物だと思う。
40歳を迎えるとき、多くの人は
仕事でも自分の力量を発揮できて、
周囲にもなくてはならないと思われる存在になっていて、
いままでと同じコンパスで描く円の中にいる限りは、
万能感にあふれている。』
『でも、40歳を超えた途端、
「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。
自分でもうすうす、
いままでのままじゃ通用しないと感づいている。
別のコンパスで描いた円に入っていって、
いままでとはぜんぜん違うタイプの
力を発揮しなきゃいけない。
その時、自分が万能じゃないし、
役に立たない存在だと突きつけられる。』
『ワクワクすることが見つからない人には、
ひとつだけアドバイスがある。
「絶対にやりたくないことからは逃げる」
と心に決めること。
これは逆説でもあって、
「絶対に」が付かない程度の、
文句を言いながらやれることなら、
逃げずにやり遂げろということ。
そうしているうちにワクワクが見つかるから。』
(糸井 重里さん)
『わたし』を肯定する研究
ケリー・マクゴニガルさんとジェイン・マクゴニガルさんのほぼ日特別講義
https://www.1101.com/mcgonigal/index.html
『「もっとストレスを感じない人にならなくちゃ」
と思ってきました。
「このストレスが原因となって、
逆に失敗するんじゃないか」
と感じることも、よくありました。
ストレスに向き合うのではなく、
ストレスから逃げることばかり考えてきたんです。
ストレスは敵ではありません。
減らそうとしたり避けたりする必要はなく、
「どう捉えるか」がなにより大事、ということです。
強いストレスを感じても、
あなたに問題があるとか、人生がおかしくなっているとか
そういうことではないんです。』
『ストレス反応が実際に起きたときの
具体的な対処法を復習してみます。
次にストレスを感じたときから使える、
とてもシンプルなヒントです。
その1
まず、ストレスを感じたら
「いま自分にはストレスがかかっているな」と
冷静に受け止めてください。
その2
次に、
「ストレスはそのことを大事に思っているからこそ
起こるサイン」
ということを思い出してください。
ストレス症状は脳と体が
あなたを応援しようとしている信号です。
「このストレスがあるということは、
まさにいま、脳と体が
わたしを応援しようとしてくれているんだ」
と考えてみてください。
その3
そしてそのまま、自分のストレスを
「利用できるエネルギーだ」と思ってください。
できれば実際に声に出して
自分自身に言ってみてください。
「このエネルギーを使って、どんなことをしよう?」
そこからどう行動するかは あなた自身が決められます。』
(ケリー・マクゴニカルさん)
【類似記事】ハイパフォーマーだけが実践する、本当のマインドフルネスの活かし方
https://mirai.doda.jp/theme/wellness/mindfulness/
組織内でマインドフルネスを導入しようとし、
「いかに社員がリラックスし、伸び伸びとしたらいいか」
を模索しようと考えた
ところが、手始めに自社のハイパフォーマー
(高業績者・エース人材)にヒアリングをしたところ、
みんな極度に高いストレス・不安を感じて仕事している
という点が共通項だった
はたして、本当にリラックスする、というのが
組織にとっていいことなのか、分からなくなった。
マインドフルネスとはいったい・・・
(ある大手IT企業の社員)
『会社で結果が出せるハイパフォーマーは、
完全に不安、ストレスとか、ストレッチな状況への捉え方
が、他の人と決定的に違います。
直面した状況が、ビジネス上どのような重要度があるかを
適切に把握し、「これは重要なものだよね」というテーマ
に関して、いい意味の不安やストレスを感じられるんだな
と今回あらためて思いました。
言い換えれば、状況に対して不安やストレスを感じる
「スケール(ものさし)」が適切なんでしょうね。』
(ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス株式会社
取締役人事総務本部長 島田由香氏)
『疲れない脳をつくる生活習慣』の著者で、
予防医学研究者の石川善樹氏が冒頭に提示した
「究極のマインドフルネス」は、いわゆる
「フロー」「ゾーン状態」とも呼ばれる状態であり、
高い集中をし、時間が流れるのを忘れて没頭している
状態を指していました。
この状態になるための条件は3つ。
1. 高いストレス・不安
2. リラックス
3. やるべき行為への集中
『ゲームをする人たちの、
新しい呼び方を提案させてください。
「ゲーマー」ではありません。
わたしの気に入っている呼び方が、
こちらになります。
Super-Empowered Hopeful Individuals。
つまり、大きな力を持ち、希望にあふれている人。』
『日常の課題を、ゲーム内のクエストのように考えます。
たとえば、あなたのいまの目の前にある課題を
次のような考え方で取り組むと、どうでしょうか。
1. どのクエストに挑戦するかを選びます。
2. 自分をより賢く、より速く、より良くしてくれる
パワーアップアイテムを集めます。
3. 自分の障害となる敵と毎日戦って
経験値を貯めて、レベルアップします。
4. 助けてくれる相手を見つけ、仲間を作ります。
5. どんどんレベルの高い敵にチャレンジして、
驚くほどの大成功を目指します。
6. ゲームのプレイヤーであるあなたは、
自分の行動でいろんなことを変えることができます。』
(ジェイン・マクゴニカルさん)
『最近すごく、ミュージシャンにあこがれてるんです。
ミュージシャンと演劇の人で明らかにちがうのは、
つくる作業がひとりじゃないですか。
もちろんバンドではみんなといっしょですけど。
言葉をつむぎだすとか、曲を作るのって、
ものすごい孤独だとは思うんです。
その孤独な人たちが集まって、
「じゃやろっか」とやり始めたときの、
あの、なんかもう大人っぽい感じ?』
(宮沢りえさん)
『だって、
思い通りにいかないことだらけじゃないですか、
子どもって。
ここに座ってなさいと言われて
1時間おとなしく座っている子どもはいない。
すると、
「なぜ座らないか」とか、
「どうしたら座っててくれるか」を考える。
お母さんでいることは
とってもクリエイティブな気がします。』
(宮沢りえさん)
『ぼくの年になると、打席を作れる人になりたい。
若い人であろうがベテランであろうが、
打席がなくて力が出せるはずがないので。
それは自分の仕事だと思うから、
打席を作れない自分というのは、
「おれはサボっている」と思うんです。』
(糸井重里さん)
ほぼ日刊イトイ新聞より
2018年元旦のダーリン
糸井重里氏からの今日のメッセージ/ほぼ日より
さて、新しい年になりました。
年越し、年またぎの儀式性が薄くなったというか、昔にくらべて、年が変わったということを、
あんまり意識しない世間になっているので、
年越しギャグも、あんまり笑えなくなっています。
「元日や 餅で押し出す 去年糞」という句だって、
なにかと去年と今年の間に線を引いて、
なにもかもが改まったように振る舞う世間があるけど、
身体ってものはなんにも変わっちゃいないよね、
という目のつけ方がおもしろかったわけですが、
いまは、あちこちで去年と今年が連続しているので、
あんまりおもしろくなくなってますよね。
除夜の鐘の音も聞こえなかったなぁ、うちのあたりも。
京都のお寺だらけの地域なんだけどね。
近所のお寺の除夜の鐘は、去年から中止になったし。
新しい「ほぼ日手帳」をおろしたのが儀式かな。
今年は「ほぼ日5年手帳」も使ってみようと思ってます。
そんな夜に考えることですから、
もちろん去年の続きに決まってるんです。
ずっと考えてるんだけど、あえて元旦に言ってみたい。
これからの仕事、つまり市場、そして働き方のことです。
「機械(ロボット、コンピューター、AI)が、
できることは、どんどん機械にまかせたらいい。
人間は、機械にできない創造的なことをやるべきだ」
という考えには無理があると思うんです。
そんなに見え見えのクリエイティブなことなんてない。
そうでなく、ぼくは思うのですが、
「機械にできることのなかから、
人間がやりたいこと、人間が好きなことを、
返却してもらって、それをたのしくやっていく」ことが、
これからの仕事、市場、働き方をつくっていくのです。
機械にやってもらっているままいいという場合は、
そのまま、機械にお願いしましょう。
でも、「それ、わたしがやりたい」ということは、
機械にやらせておくのは、もったいない。
上手下手、効率、そんな判断はする必要はないんです。
人がやりたいこと、人にしてほしいことは、
人がしたほうが価値が高いということですよね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やりたいことがあったら、じぶんで「手を上げよう」です。