今日のダーリン

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン  2018年4月5日(木)

ぼくは、なにかをことばにすることを仕事にしている。
人はそう思っているようだけれど、
ほんとうのことを言えば、
ぼく自身は半分くらいしかそう思ってない。

ことばにできたような気がするときというのも、
そういう照明の下で、そう見えた写真みたいなもので、
そう表現されたもののほんとの大きさ豊かさのほうが、
ことばで言えてることの何百倍もある
のだ。

ことばにできるというのは、いわば、
ニックネームをつけるくらいのことである。
ゴリラというあだなの人がいたとして、
「なるほどなぁ」といくら人が納得していても、
それはゴリラのように撮れた写真の一枚にしかすぎない。
ゴリラ氏を大好きな人から見た彼のいいところなんかは、
ほとんど見えてないことだろう。

ことばにする前の、ことばになってないなにかを、
どれくらい受け止めているかのほうが、
ほんとうは、ことばにする以上に大事なことなのである。
そういう意味では、ぼくが実際に、
なにかをことばにする仕事をしているとしても、
「さぁ、できた」とことばで表現するその前のところで、
いちばん仕事をしているというわけだ。

どうしても、まだ言いたくなっちゃうのだけれど、
「うちの犬は、いいこ」と、ぼくも含めて、
いろんな人がそう言ってるよね。
そのときに、「どういうところがいいこなのですか?」と
あらためて問うのは、ほんとうは野暮というものなのだ。
ああいうところ、こういうところと説明をはじめたら、
「うちの犬は、いいこ」と言うときの、
まろやかでにこやかで、こころがふるふるするような
あの気持ちよさは消えてしまう
のである。
「いいこ」と感じて、そう言っているときの、
「うちの犬とわたしの間」にある「とてもいいもの」は、
すでにそこにあったものなのだから、それでいいのです。
ことばでなんでも言えたような気になるなよ、と。
それを知りながら、ことばを使うんだぜ、と、ね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そう言いながら、ことばを毎日吐き出しているんだけどね。

糸井さんは「ことば」について語りましたが、
私はそれを「ビデオ」の話として聞きました。

ビデオの良いところ
→放っておくと忘れてしまうシーンを何度も繰り返してクッキリと見ることができる
→そこにいなかった人に見せることができる

ビデオの限界・悩み
→自分の眼で見ていた印象とは違う 新しい事実を作り上げることを、強く意図するか、意図しないかに関わらず、してしまう
→ビデオに残らなかった多くの時間のことは次第に忘れ、ビデオに残った ほんの一握りのシーンだけが頭に残る。偏った記憶が残ってしまう気持ちの悪さ。

良いところ>悩み 気持ち悪さを抱えながらもつくります



糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン   2018年4月4日(水)

おとうさんやおかあさんが、
どういうことを思ったり、考えたりしていたか。
こどもは、じぶんが大人になったときに知りたくなる。

いっしょに過ごした時間が長くても、
たくさんいっしょに話したことがあったとしても、
そこであんまり語られなかった
「おとうさん」や「おかあさん」がいる。
家族としてどんな話をしていたのかとは別に、
おとうさんは他の大人たちとなにを語りあっていたのか。
おかあさんはひとりの時間になにを思っていたのか。
そういうことが知りたくなる。

大人になったこどもは、
あるときに、おとうさんもおかあさんも、
ひとりの人間だったということについて、
いまさらのように気がつくからだ。
おとうさん、おかあさん、と呼んでいた人が、
じぶんのような人間だったとしたら、
どんなふうに生きていたのだろうかと興味を持つ。

こんな機械をつくる仕事をしていたんだよだとか、
こういう人に、こういうサービスをしていたよだとか、
うれしいときにはこんな歌をよく歌っただとか、
隠していた恋心があってねだとか、
こんなことをずうっと気に病んでいたんだよだとか、
全然だめだめなことでもいいし、
けっこうりっぱだったことでもいいし、
弱いところがいっぱいあったという事実でもいい。

そういうおとうさんやおかあさんの
さまざまな足跡を見て、こどもはまた大人になる。
おそらく、ぼくのこどもは、自然と、
ぼくがこうして書いている文章を読むことになる。
直接会ったときには「げんき?」とか言い合うだけでも、
そうじゃないぼくのことを知ることができる。
ずいぶん恥ずかしいことでもあるけれど、いいことだ。
ぼくは、ひとりのこんなふうな人間で、
できることなら、これを読むこどもが、
生きることを好きになるような足跡を残したいと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読まれるかもしれない手帳を、いま記しておきましょうよ。

2018年4月4日の「今日のダーリン」は、なぜこんなサイトを私がつくったか、を私に代わって説明してくれたような気がします。
糸井さんは、おとうさん・おかあさん自身のことについて こどもは知りたくなる、と書いていますが、
私がこのサイトに書くのは、私がゆうりをどうみていたのか、ゆうりから何を学んだのか、ということです。
「おとうさんも、いろいろ思い悩んだり、一喜一憂してたんだな」とバレちゃってもいい。
そして、おとながみんなで、ゆうりのために、しかも、現在のゆうりのためだけではなく、将来のゆうりのことを想って
いっしょうけんめいに接してくれていたこと、ゆうりがそれを理解できる年齢になったときには、ちゃんと知って欲しい。
おとうさんやおかあさんもだけど、保育園の先生もほんとうにいっしょうけんめいに、ゆうりの将来を想ってくれています。
おとうさんやおかあさんは、生きている限り、ゆうりの成長を見守ることができます。
だけど、保育園の先生とは決められたお別れの時があります。
そのときが来たら、保育園の先生は、きっと残念に思ってくれるでしょう。
だけど、少し時間差があって、今度はゆうりのほうが保育園の先生にもう会えないことを、とてもさみしく想う日がきっときます。
「せんせい、ありがとう。ボクはこんなに大きくなったよ。」と報告することができないことを、きっと残念に想います。
私にも、また会いたいと願う先生がたくさんいますが、なかなかもう会うことはできません。
このサイトも、いつか ゆうりが嫌がる時が来てしまったら、更新はストップします。
ですが、それまでの間だけでも、今お世話になっている先生、これまでにお世話になった先生、そして親戚のみなさんに
ゆうりの成長のようすをお届けしたいと思います。